あくなき表現活動を求めて

2017-11-11
社会・組織に絡めとられ
本来の「表現活動」を失ってしまう
「本気」の「本気」とは・・・・・

ある方とメッセージをやりとりしていて、そのあくなき表現活動への追究姿勢に心を揺さぶられた。自らも短歌・評論・論文、また朗読・落語などの表現活動をしてはいるが、個々の対象にそれほど妥協なき姿勢を貫いているか思うと、やや恥ずかしくなってしまった。「真摯に向き合う」と言葉では簡単にいえるが、「本気」とはこういうことではないかと大変触発された思いである。自由ではあるが何ら保証のない道を歩み、頼れるのは自らの「表現活動」のみ。まさに「プロの矜持」ということになろうが、組織に属した人間というのは本来「プロ」であるはずなのにこの「矜持」を持たない人々が圧倒的に多いように思われる。往々にして組織に絡め取られるか、依存し尽くして、いずれにしても自らを失う輩が多いのではないだろうか。

僕が初任校に勤務した時、高校スポーツの頂点に何度も導いた指導者がいらして、常々口にしていたことがあった。「本気になれば全国制覇はできる」である。若輩であった僕は、何度も既に実績があるからいえる言葉だと思いながらも、どこかでその「本気」という点が心に強く響いた記憶がある。初任校は私立学校で十数年在籍させてもらったが、その間に関わった生徒たちの中にはプロスポーツ界の門を叩く者も少なくなかった。その活躍と挫折を目の当たりにすると、自らは「教師」として「国語」を教える「プロ」として本気かどうか?という疑問が拭えなくなった。考えてみれば、その時に「本気」になったゆえに、いま僕は大学教員として自らの生きる道を歩んでいることになる。だから採用試験を目指す学生たちにもこう言う、「本気で教師になる気があるか?」と。

どうやらまた「本気」になる時が来たようだ
ありがたき先輩が身近で本気以上の表現活動をされている
偶然なるも与えられた環境を自らの前向きさにどう活かすかである。


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講義より対話ーやる気と思いやりの教育へ

2017-11-10
心とは「思いやりとやる気」で人間性といふ
それ即ち「対話性」と「主体性」なり
もはや講義よりも対話を創る研修こそが・・・

県中部教育事務所からのご依頼で「読書推進協議会」にて、講演とワークショップを実施した。8日付小欄にその経緯は記したが、ゼミ4年生6名を伴っていよいよ本番当日となった。会は県内中部地区中学校の図書室担当の先生方が一堂に会し、まず現場からの実践報告が為された。図書館担当教員であっても現状の学校組織の中では、他の仕事もたくさん抱えているゆえに、その活動には努力が欠かさない。また学校内で忙しい他の教員からの理解を得ることも困難ながら、地道な工夫を重ねていらっしゃる先生方の活動をあらためて知ることができた。その後、30分のお時間をいただき「読書活動と豊かな人間性」というテーマで講演を行った。冒頭一行目に記したのは、僕の通っていた幼稚園園長のお言葉であるが、「心(人間性)を育てる」ことこそが「心育(教育)」であると云う。実は次期学習指導要領で提唱されている「対話性」や「主体性」とは、「思いやりとやる気」という「人間性」ではないかという提案を行った。

さて「教員研修」というと、実に雰囲気が硬い。そこで一方的に大学教員が”わかったような”理論を掲げても、現場での実践活動にどれほどに変化を差し向けられるものかと、かねてから疑問に思っていた。もはや時代の要請として「講演」「講話」というのは、やめた方がよいのではないかとさえ思う。今回も担当の先生にお願いして、学生たちが将来の教壇での意識を予想した「読書推進」に役立つであろう活動をご披露して、その後に現場の先生方とともに対話する構成にして欲しいと懇願した。「歌集ブックトーク」「創作的読み聞かせ」「詩の群読」の3点をゼミ生が分担して作品を創って披露した。その後はグループに分かれて、その発表に対する先生方のご意見を学生が各班内で対話しながら聴き、また学生側からも現場への質問が先生方との間に為された。今後は県内でも大量退職大量採用の時代となるが、こうして県教育事務所と現場教員、そして地元教育学部の学生と教員が三者で学び合う環境が、求められていることも予見できた。学生たちは卒論へも大きな示唆を得たであろうし、また現場の実情や先輩教員となる先生方との間に、人間的な繋がりが芽生えたのも大きな成果であった。

時代は大きく動きつつある
学生たちとともに未来の教育を模索する
日本一の「短歌県」「読書県」を目指すためにも。


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一枚の葉書こころあふれて

2017-11-09
一言のコメントが励みになる
そしてまた一枚の葉書にお気持ちが満載
ありがたき手書きの文字のぬくもりよ

大学のレターボックスには、多くが事務的な書類が届けられており、次なる仕事が想起され身構えることも多い。そんな中で万年筆で手書きされた一枚の葉書が届いていた。葉書というのは即座に署名や文字面から内容が読み取れるのも、一つの興であると実感した。廊下を研究室に向かいながら何度も文面を読み返し、この上なくこころがぬくもるようであった。それは先月宮崎で開催した和歌文学会第63回大会に、台風その他諸般の事情で来県を断念した先生から、その思いが綴られたものであった。内容的にはどうしても行きたいと思われていたようだが、それを「泣く泣く」諸々をキャンセルし「断念」したのだという趣旨が刻々と記されていた。葉書ゆえ決して長い文章ではないが、それだけにお気持ちが直裁的に前面に出ていて、受け取る側からすれば大変こころがぬくもった。

この葉書をいただいた先生は、「大会申込返信葉書」にも大会が実に楽しみであるという趣旨とともに、「ご無理なきよう」といった大会運営をお気遣いされる気持ちが短いメッセージに込められていた。大会開催の1ヶ月前頃より、実務的には辛い日々が続いたが、この先生の葉書の一言を何度も読み返して正気を失わないよう自分を保ったような覚えもある。大会開催に「執念」を燃やせば燃やすほど、「無理して」広い視野を失う可能性もあると考えたからである。それにしても「万年筆の青インク」による手書きの文字の葉書は、この上なくあたたかく感じる。これは決してメールやSNS投稿ではあり得ない、肌の身体的なぬくもりを伴うものである。Web上のように、相手が「開封」「既読」かどうかも即座にはわからない。相互に届くまでには時間を要するのだが、文字に表れたこころを受け取るといった対面的な身体性が実現するといった効能があるように思う。

自らも葉書と切手と万年筆セットは常備
文字を刻み相手に思いを伝える文化を大切にしたい
牧水などの自筆揮毫や信書の展覧を観る意味もこんなところにあるのだろう。


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日本一の「読書県」へ向けて一歩

2017-11-08
短歌県のみならず
目指すは日本一の読書県
推進事業に向けて手を携えて

宮崎県を「短歌県」にしたいと、俵万智さんが地元紙連載で話題にしてからおおよそ1年になる。自らが関わっているせいもあるが、毎月随所で「短歌関係」のイベントが開催されており、事あるごとに知事もそのような目標を口にしている。先月開催した和歌文学会大会もそのような趣旨を前面に出し、懇親会でやはり知事が「短歌県」への思いをスピーチしてくれた。また意外と県内でも知られていないのが、宮崎が「日本一の読書県」を目指しているということである。先日も大学附属図書館運営委員会でこの話題を提供すると、ほとんどの先生方や職員さんはご存知なかった。目標というのは、まずその標題そのものを口うるさいほどに事あるごとに喧伝する必要性を感じる。それゆえに小欄でも常に「短歌県」については語って行きたいと思うのである。

さて、本学には教職大学院があり現職の県内教職員の研修機能としても期待されている場となっている。そこでは県教育委員会から「実務家教員」として、任期付で大学教員に赴任いただいている。この度、以前に実務家教員だった先生とのご縁もあって、県教育事務所主催の「読書推進協議会」における研修の講師を務めることになった。内容を詰める段階で、僕自身の考えもあって一方的な講演講話は避けて欲しいと懇願し、むしろ学生も参加したワークショップ形式を提案した。ゼミで行なっているプレゼンや音読・朗読・群読に読み聞かせ活動などを、学生が試験的に実演して、それが「読書推進」にどう繋がるかを現場の先生方とともに模索したいという構想である。例えば「読書感想文」などを「やらされている」感があっては、むしろ読書推進には逆効果なのである。学び手が相互に自らの表現で「本」について語ったり群読することによって、心から「本を読みたい」という思いは起動する。

この日は打ち合わせで内容を確認した
本番は9日(木)午後に開催予定
「短歌県」そして「読書県」に向けて、文化こそが混迷深き世界を救うはずである。


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広きを見渡し小さきから手を

2017-11-07
大会開催の残務整理
進行中の講義に実務書類
さて仕事はいかに進めようかと・・・

大きな山に登り頂まで到達する。そのとき人は、未だ道半ばであることを忘れがちである。登ったならば必ず下りなければ命の保証はない。自明のことながら頂上に到達した瞬間には、それが大抵頭にないことが多い。野球でもまた、優位に進めれば必ずその点数を守らねばならない。「サヨナラゲーム」などというのは、ホームチームに与えられた登りっぱなしの特権ながら、その歓喜の直前までは断崖絶壁に立たされて、今にも敗戦の底に突き落とされそうな局面でなければ為し得ない危険性を孕んだ一方通行なのだ。水上を滑る船はすぐには止まれず、車であっても制止までには距離が必要である。大きな力で動けば動くほど、その制動距離は伸びるのが物理的な定理であろう。

先月まではまさに「山に登っていた」という感覚で、今月は麓の「日常」に戻りたくさんの「やるべきこと」が待っている。どこからどのようにと考えることもしばしばだが、ある知人の方がWeb上で「着眼大局 着手小局」の言葉を記していた。全体を広く見渡す視点を持ちながらも、細かく分かれた部分から手をつける、といった意味である。人生を進むためには、どんな境遇や生業にあろうとも、この姿勢が不可欠ではないかと思われる。往々にして反転した「着眼小局着手大局」となり、空転して時間を浪費してしまうこともあるゆえ気をつけなければなるまい。例えば、”忙殺”されるとは感じながらも小欄を記す時間は確保できるわけで、それもまた「大局」に眼を向ければ、そんな状況での自らの「ことば」が、これから行先の自分を救うかもしれないのである。「授業づくり」でも教員の仕事でもそうだ、いや社会におけるあらゆる行為において、この姿勢は持つべきであろう。

広きを見渡して得られる視点
そして眼前の仕事ひとつを丁寧に
山を登るのも降りるのも一歩ずつしか人は進めぬものだから。


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此処にしおればその顔のあるー月下の宵にて

2017-11-06
旧暦9月17日
食事に温泉そして月と語り合う
「此処」にいつもの友あたたかき

好天である週末など、いつ以来であろうか?昼は穏やかな快晴、そして3日文化の日が旧暦9月15日であるゆえ、3日間で望月・十六夜・立待が楽しめた。この3日間は歌会もあったが、この半年ほどの学会大会運営で疲弊しきった心身に、再び充電をするという目標を掲げていた。それをまさに、穏やかな天候が後押ししてくれたような気分であった。連休最終日の宵の口は、「ちびまる子ちゃん」を観てから、カレーが食べたくなって近所の馴染みになりつつあるお店へ。「此処」はゼミ生の1人がバイトをしていて、日によってはカウンター越しにその顔が覗かれる。接客をする奥様の笑顔にもまた、実に癒されるお店である。注文して待っていると、お店の書棚に嵐山光三郎『文人暴食』の文庫があるのを発見。手にとって「若山牧水」の項目を読み始めた。もちろん「暴食」というより「暴酒」のことが歌を引きながら書かれており、個々の事例は知っていることばかりながら、一般向けの文体でこれほど「酒」のことだけに絞って牧水の生涯が語られている視点に聊か触発された。

前述した嵐山の著作がなぜ飲食店にあるのか、その理由がわかった気がした。お店の計らいでゼミ生が配膳したカレーも食べ終わったが、その自らの身体がさらに飲食を吸収したいという衝動に駆られているのである。笑顔で会計を済ませて、その後は近所の温泉へと向かった。老年客の多いこの温泉では、夜7時以降の客は少なくなる。しかし僕自身がいつも閉館間際の時間帯に行くので、馴染みになった常連さんが必ず何人かいらっしゃる。その方々と挨拶を交わしたり、世間話をするだけで、身体のぬくもりとともに心のぬくもりが感じられる。まさに心身をあたためることは、健康にとって大変重要であると思う。その温泉のガラス越しから、ふとまた月がこちらを覗き見ている。軒の僅かな隙間ながら、湯船から見える稀少な角度がある。そのとき、ふと「月」もまた友であるという感覚になった。温泉を出て帰宅すれば、庭先に差し込む月光がやさしい。思わず「月下独酌」を決め込んで、日向の「あくがれ」をお湯で割って一献。肴は牧水の友たる「土岐善麿(哀果)」らの歌である。探さずしても、友は我のまわりにたくさんいるものである。

あの月に人はなぜ惹かれるのか?
美味しい食と酒と友と・・・
そしてまたWeb上のメッセージで友からの親愛なる言葉もあり。


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対象の立場になって詠む歌よー第317回「心の花」宮崎歌会

2017-11-05
ワインに植物から地名まで
擬人化そして「擬物化」のことなど
相手の立場になって表現すること

第317回「心の花」宮崎歌会が開催された。前日に西日本文化賞を受賞された伊藤一彦先生はもちろん、そして俵万智さんも加わり活発な批評が展開した。個々の歌の批評に関しては、作者の「発表未発表」の問題もあるのでWeb上では控えるとして、特に気になった話題について覚書としておきたい。それは標題・冒頭にも示したように「対象の立場」になって詠むということ。「ワイン」であれば「ワインの気持ち」になって、「そのような場面で飲まれている視点」から歌を詠むということである。ある意味で「擬人化」の問題であるが、技巧的というよりも歌を詠む上での「心の温かさ」のようなものとして、作歌にも批評の上でも持っておきたい姿勢である。

眼にする植物に愛情を持ちその成長の行くへに思いを馳せ、置かれている状況を心あるように動作化する。天象自然がもたらす所業は人為ではどうにもできないが、その荒れたる状況にも自らへ寄り添う心を見出そうとする。また先日の和歌文学会公開講演シンポジウムでも話題となったが、反転した「擬物化」という視線も興味深い。人為的な行為を自然の光景のようだと喩えることは、まさに自然との親和性を重んじた牧水の歌にも通ずるものである。また人同士であっても世代間の語彙使用の違いに着目し、その行動の行くへに温かい視線を送る歌なども。こう考えてくるとまさに「擬人法」などという”技巧”としての小手先な発想なのではなく、「豊かな心」の問題なのであると考えられる。互選上位歌や伊藤先生の5選歌にしても、上記のような着想の歌であるのは、「温かい心」「自然への眼差し」といった点で宮崎歌会の大きな特徴ではないかとも思うのである。

かくして歌を学ぶ充実した宵の口
「としより」などという語彙の使用奈何に関する議論も
すべては温かくありがたき宮崎歌会ならではであろう。


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〈書くこと〉の身体性

2017-11-04
キーボード上の指の動き
ペンを持つ指への圧力
あらためて〈書くこと〉の身体性について

小欄をお読みいただいてる方に出会うと、「あれはどのくらい時間がかかるのですか?」と問われることがある。テーマと日々の状況によっても異なるが、早ければ30分、少し嵌まり込むと概ね1時間といったところであろうか。資料引用や聊かの調べものをして書く場合などは、どうしても時間が多めに必要となる。間もなく3000回更新に近づきつつあるが、これが〈書くこと〉を一つの生業とする者として、大変有効なトレーニングになっているのは確かである。では、テーマや視点をどこで考えているかといえば、頭であると同時に「キーボード上」と答えるかもしれない。文体や文章の運びは、キーボード上の指の動きが伝えているわけで、その身体性に依存して書いている感覚がある。

それゆえに出張でも「携帯キーボード」は必需品である。端末はスマホであっても、キーボードを接続して文章を書き付ける。スマホ上の入力方式で「指主導」で書くのとは、文章そのものが違ってきてしまうような気がする。ある時感じたことは、スマホ入力であると短文なTwitterを指向するするような文体に自ずとなってしまうということだ。タッチ画面の「触れる・滑らす」感覚とキーボードの「圧力で押す」感覚では文体を編み出す作用が違うのではあるまいか。こう考えると、いざペンを持って書く文章はどうか?時折、礼状などとして葉書に万年筆で書く場合があるが、それはまさに「刻み付ける」感覚があって、やはりそれなりの文体をその身体が作っているような感覚がある。とりわけ筆記具を万年筆にこだわるならば、その「刻み」具合の感触に酔うことさえある。いずれも特徴ある身体性があるゆえ、それぞれを有効に起動して文章を書くべきだと思う。

筆記具は文芸を変えるのか?
「キーボード文体」と「原稿用紙文体」を比べたら?
自らの中にも複数の〈書くこと〉の身体性がある。


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授業研究と短歌

2017-11-03
なぜ授業は退屈になるのか?
あなたも中高の授業で経験があるのでは
担当科目「国語科授業研究Ⅱ」で考えた覚書

高校時代などを回顧して、あの「国語」授業の喩えようもない空虚感は何だったいだろうかと思う。ある先生は古典文法などをただただ一方的に活用表などを板書して自分で喋っているだけで、ほとんど生徒で聴いている者は稀だったように思う。また現代文で単元教材の最初の時間などは、指名されて生徒が音読していくが、それも学級内でその音読を受け容れている者は少なく、昼休みの後などでは睡眠率が8割9割という悲劇的な授業も体験したことがある。そんな際に自分はどうしていたかといえば、眠るのはさすがに憚られたので自分なりの詩集や歌集を読んでいたのであった。国語にはもう一人の先生がいたが、その先生は生徒にじっくり考えさせようとするタイプで、自分から「正解」めいたものをすぐには決して言わなかった。だがあまりにも待ち過ぎて特段の手立てがないゆえ、次第にやはり退屈な時間とならざるを得なかったと記憶する。果たして「国語」授業が退屈で忌避される原因は何なのかと考えるのは、僕自身の体験から発する大きなテーマでもある。

後期3年生科目「国語科授業研究Ⅱ」では、教室での「声」をテーマにしながら3分程度のミニ授業を構想し、その有効性を実践的に探るという内容で行なっている。ちょうど昨日は「和歌・短歌」を教材にした音読中心のミニ授業を、受講者全員に実践してもらった。全体にわたって総評するならば、教材たる「和歌・短歌」の「説明」をする内容が目立ち、学習者が「音読」をする中から語彙や韻律に気づき、自ら考え始めるような実践が少なかった。前述した僕自身の高校国語授業経験で現職の先生でもその傾向が強いわけであるから、学生に至れば仕方ないとは思えど、なぜ「授業」というと「説明」をしてしまうのかと素朴な疑問をあらためて持った。考えるにこれは、短歌の批評にも通ずるものではないだろうか。所謂「説明」の短歌というのは、「そうですか」という読後感を抱くだけで、読者の心に響くことはない。「言いたいことを自分で言ってしまっている」というのも、歌会などでよく指摘される評語だ。こうした事例を挙げるまでもなく、短歌は対話的に読み手に考えさせる文芸なのである。どうやら学習者に考えさせる授業というのは、短歌を学べば腑に落ちると言えるのではないかなどと考えている。

「教え込もう」という教壇での傲慢
では自らその教材がどのくらい腑に落ちているか
主体的・対話的な言語作用は、短歌が培ってきた文化の中にある。


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過去の引き出しいくつものわれ

2017-11-02
時の過ぎゆくままに
今の自己は数え切れない過去に支えられている
その集積である「いま」をどう未来へと生きるか

11月となったが、ここまで例年になく早かった印象がある。夕食をとるために入店したレストランでは、早くもクリスマスソングが流れており、思わず「もう少し待ってください」とでも言いたくなった。だがいつもながら時は過ぎゆくままに、今の連続はこうしている「いま」でさえ決して待ってはくれない。そんな「流れ」に重りを乗せて、何とか留めようとするのが、こうして文章に記すことや短歌に詠む行為である。先日の中古文学会シンポジウムでも、「書く」とは「掻く」「描く」「刻む」などの動詞にに連なり、今ではこうしたPCなど機械類で文字を「書く」時代になったが、元来「文字」とは「時を掻く」「時を刻む」ものであり、小欄なども昨日という「過去」をここに何とか留め置こうとして8年以上の歳月が経過しているわけである。

流れた時間を流れたままにしておく人生というのは、虚しさが伴う。前述したように時間は前にしか進まないが、その宿命の渦中でも様々な場面と必要性に応じて、過去と現在を往還することで未来のあり方も見えてくるように思う。過去の引き出しにある「いくつものわれ」を取り出してみることで、「いま」の行動の必然性が見えてくる。仕事をする力も、生活上の衣食住でも、趣味・嗜好のひとつにしても、超え難く過去の「われ」と繋がっている。当然といえば当然のことながら、人はそれを忘れてしまっていることがある。例えば短歌ひとつを詠む際にも、こうした引き出しから、「記憶」という「宝」を出すことだと思うことがある。やや大仰な行為のようだが、「いま」の「われ」はこうした幾重もの「過去」によって形作られているわけである。

イチローがよく口にする
「野球に関するすべてのこだわりは、『生き方』の問題」なのであると
時計の針を止めて「われ」を見つめるには「掻く」「刻む」しかないことがわかる。


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