すぎかきすらのはっぱふみふみー芸術家派遣事業にて

2018-02-09
今日は朗読家
小学校1年生の子どもたちと声の交流
宇宙語「みじかびのきゃぷりきとればすぎちょびれ・・・」

昨年もこの時期に訪問した日向市の小学校を、今年も訪れた。これまで4年間にわたり関わってきた、芸術家派遣事業のワークショップを実践するためである。昨年の実践内容については、つい先日依頼いただいた「国語教育」の実践雑誌の原稿に記し4月号として出版・公開されることになる。昨年と今年で共通する考え方は、「文字を使わない音読・朗読」である。「文字」を読むとどうしても内実の伴わない空虚な「読み方」になってしまい、相手に伝わる「生きた声」にはなりにくい。正確に「文字」を読む学びも大切ではあるが、目的を個々に定めた音読活動をというのは、僕の前著からの主張でもある。今回のワークショップはまず、数の数え方から。1から10までを声と動作で数える。次に10から1まで逆に数える。すると一つだけ「読み方」の違う数字がある。お考えいただけばすぐにお判りと思うが、数字にはふた通りの読み方があることが自覚できる。次は短歌?「一二三四五六七八九十十一十二十三十四」を拍手をつけながら音読し、基本的な短歌の持つ「拍」を体感するようにする。

その後は「宇宙語」と称して冒頭に記した大橋巨泉の歌を、やはり声と動作で表現していく。どうやら結句の「はっぱふみふみ」が、子どもたちは大のお気に入りのようだ。さらには「宇宙という自然から日向に舞い降りたと称し「牧水先生」を紹介する。「今日もまた・・・」「白鳥は・・・」の二首について、どんな動作になるかと声と動きをつけて子どもたちが表現していく。「白鳥」の歌で「哀しからずや」の一節などは、泣く仕草をしながら級友たちと抱き合う者なども現れて、下句の孤独感はむしろ他者との関わりによってもたらされ強調されていることなどを考えさせられた。こうして1年生には難しいと思われる牧水の代表歌であるが、場面のイメージを「声」で韻律に載せて、意味は思うがままに「動作」で表すことで十分に「体感」できるものである。一昨日の牧水賞授賞式の席上でも繰り返し語られたが、短歌は「韻律」なのである。最後に昨年から実践している「うちの子は甘えん坊でぐうたらで・・・」(俵万智さん『かぜのてのひら』所収歌)をグループで寸劇にするワークを実践して楽しい50分間を過ごすことができた。

授業後に全員とハイタッチ
さらに校長室で「音読談義」
日向で名物「ヘベス餃子」を購入し、午後の会議に備えて大学へと帰った。


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人生の深みを知る歌集「時禱集」ー第22回若山牧水賞授賞式

2018-02-08
三枝浩樹さん「時禱集」
アピールやリアクションの歌ではなく
人生とは何か?人間とは何か?を問い掛ける奥深さ

毎年この時期は若山牧水賞の授賞式が開催され、受賞者はもとより関係する多くの歌人の方々などが宮崎で一同に会する機会となる。今年は三枝浩樹さん「時禱集」が受賞、選考委員のどの方の弁でも「全会一致」の決定であったと云う。長年、故郷の山梨で高校教員をされながら、結社「沃野」代表も務められ、日々の生活に根ざしながら「人生」の深みを詠んだ歌が詠める奥行きの深い歌人である。お父様は窪田空穂門下の歌人で、幼少の頃に空穂が自宅を訪れた際に、振舞われる豪華な料理が食べたくて兄弟とともに襖に穴を開けたといったエピソードも紹介された。山梨という土地に根を下ろしつつ、広く短歌の世界や生きる世界全般を問い直す歌人としての評価は高い。牧水が山梨出身の俳人・飯田蛇笏と友人であったエピソードも紹介され、若い頃はお互い励ましあって短歌・俳句を苦悩の中で作り続けたと云う。牧水とのゆかりという意味でも山梨の風土を介し、節目の苦悩という人生の結節点で関連があるようだ。

選考委員の佐佐木幸綱さんの評では、最近はアピール力やリアクション力など「エンターテーメント」に迎合する歌集も多いが、「時禱集」は「文学・哲学を思い起こさせる歌集」であると云う。60年代から70年代には「文学とエンターテーメントがはっきり分離していた」ということで、そうした「純文学」の香りを放つ貴重な歌集であると評価している。また栗木京子さんの評では、「読んでいて疲れない佇まいを感じ、透明感があり清らかで柔らかな歌集」であると云う。「一首一首が自己主張し過ぎず溶け合い、口ずさみたくなる音感の素晴らしさ、描写の細やかさやリフレインの滑らかさ」も栗木さんの弁。さらにテーマとして「母」を詠んだ歌などは、言葉を軋ませることなく平易な中に、人生の奥深さが実感できる歌集であると云う。そんな三枝さんは、牧水の歌をどう評価しているかも興味深かったが、「現代の若い人たちが、息苦しい閉塞感の色濃い時代に生きていて、そこから抜け出すヒントが牧水の歌に読める」と云うのだ。この評価からも、三枝さんの「生きる」ことの厚みが窺える弁であった。そしてまたもちろん、お酒好きという受賞者の条件?も奥深く資格ありの三枝さんとともに祝賀会や2次会が続いた。

三枝さん自選十五首から
「うつせみのひかり集めてたまかぎる夕べの色とわれはなりゆく
 おのずから胸に浮かびてとどまればしばし秘密のごとく母恋う
 きみの中の花瓶は修復できるから なずなすずしろを摘みにいこうか
 広やかなあおぞら ゆるすということを否、ゆるされていること知らず
 ゴドーを待ちながら人生が過ぎてゆくかたえの人もようやく老いぬ」


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水を得てうなぎ

2018-02-07
しばらく忘れてた水泳の爽快さ
そして脂の少ない蒸しうなぎをいただく
より健康への配慮を怠らず・・・

朝から市内某所で仕事があった。こうした仕事からもまた、新たな出逢いがありそうで実に興味深い。宮崎で仕事をする利点とは、こうして地域の様々な方面の方々と直に繋がりを持てるということ。その仕事からまた、社会の輪を創り出せるということ。この3月で丸5年となる月日の中で、こうした人との繋がりで助けられたことも多い。さて仕事を終えて一旦大学や自宅へ帰るのも二度手間になるゆえ、そのまま珍しい時刻にジムに足を運んだ。夜とは違い比較的年配の会員さんが多い中で、ストレッチをじっくりして遅めのランニング30分から筋トレへ。あまり時間に囚われることなく、じっくりとトレーニングをこなした。まさに自分の身体各所の声を聴く、といった感覚であった。

その後はかなり久しぶりに、プールに赴いた。ちょうど1年前の人間ドッグ検診で、呼吸機能年齢が、ほぼ実年齢と等しかったゆえにこだわりを持って始めた水泳である。だが昨秋の学会大会開催運営前後から、なかなかプールにまで赴くことがなくなってしまっていた。また水泳の効用は有酸素運動のみならず、思考を活性化して前向きにしてくれることも実感していた。となると、水泳をしてなければやや停滞気味の思考になっていたと言えるのかもしれない。以前のようにゆっくりと距離は考えずに、15分間を連続で泳ぎ続ける。次第に身体が水と融合して重さを感じなくなり、同時に思考が冴えてくる実感が得られてくる。きっと各所の細胞が喜んで活性化したに違いない。そしてまた、食生活も今一度見直そうと今年の人間ドッグで考えを新たにした。

ということでジムの後は宮崎名物の鰻をいただく
まさに良質なタンパク質補給
明日への活力、水を得てうなぎ


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卒論口述試問の意味を問い直す

2018-02-06
あの時の先生の言葉
今もなお自らの心の礎
ゼミ生の卒論口述試問に及び・・・

文学部出身の僕にとって、卒論は生き方を賭した一大行事であった。執筆の際に最後の清書がかなり難航し、ほぼ3日間にわたって徹夜状態が続き、朦朧とすると好きな音楽をかけて歌を唄い覚醒させ、ペンだこの疼きに耐えながら書いた記憶が蘇る。そしてまた口述試問に臨んだ際に、指導教授が実に繊細に自らの論を読んでいて、仔細な誤字の指摘はもとより、自らも十分に理解していない論の展開を詳細に質問され、そこで初めて自分はこのような論を書きたかったのだと悟った記憶がある。その約20分間ほどの指導教授との対話を、僕は今でも克明に覚えている。そしてその後、現職教員である時も、研究者を再び志した折も、その記憶を礎にして歩んできたように思っている。

今や、その卒論口述試問を僕自身が行う立場となった。何より僕が恩師に施してもらったように、徹底的に「卒論を読む」ことを念頭に置いて指導しているつもりである。その読んでいる過程において、個々の学生の4年間の成長が手に取るようにわかってくる感覚がある。その長所と短所、思考の傾向、嗜好の如何なども含めて、日常で対話し関わってきたものが言説化されているようでとても興味深い。人は誰しも個性があり、得手不得手もある。それを自他ともに客観的に捉えて発展させたり補足したりして初めて成長が期待できる。大仰に述べるならば、ゼミで卒論に向き合うということは、その後の「生き方の傾向を予測する」に等しいのであると思っている。やはり僕自身の卒論を振り返るに、今のような「生き方」への傾向があったのだと納得しつつ、ゼミ生の「生き方」に向き合う午後であった。

大学の学びを考える
今こそあらためて卒論の意味を問い直す
22歳でとりあえず、それまでとこれからの「生き方」を言説として捕捉するということ。


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楽しく力のつく授業にするためには

2018-02-05
授業が楽しいか?=主体的
力のつく授業であるか?=指導力
指導者自身の力を問いたい・・・

教職大学院課題研究発表会が開催された。僕は学部所属であるが、数科目に及び兼任担当科目があり、大学院実習で中学校該当者がいると担当になるという関わり方をしている。教職大学院に関わった折に常に考えるのは、研究者教員としていかに関わるかということだ。当該大学院には実務家教員として、県教育委員会から出向でいらしている先生方も配属されている。現場経験に根ざしたより実践的な指導のあり方を、実務家の先生方は指導の旨とされている。ならば研究者教員としては、より客観的・分析的に授業を始めとする学校での活動を捉えて、院生たちに指導する責務があろう。その院生も半数は県内の教職員の方々で、現場での課題を解決しよりよい指導力をつけて1年後に再び現場に帰るということになる。

「楽しい授業(教科)」などと簡単に口にする場合も多いが、果たして「楽しい」とはいかに培われるものなのだろうか?例えば、「落語」は「楽しく笑える」ものであるが、同じ噺を誰が喋っても笑える訳ではない。落語家はその日の一期一会の客に対しても、マクラで笑いのツボを捉えてから噺を決めたり、その場にふさわしいネタを振り込む。それはひとえに、落語家自身の基礎的な力量が高くなければできるものではない。そして「力量」とは決して「話す技術」のみにあらず、落語の演目や背景に対する奥深い造詣があってこその「力量」であろう。話題を「授業」に戻そう。「授業」では、学習者に「力をつけさせる」のは自明のことである。だが果たして「授業技術」の範疇、いわゆる「フレーム」を整えるだけで「力のつく授業」になるのだろうか?学習者に「力をつける」と言うならば、前提として指導者に「力」が備わっていなければなるまい。どんなに技術が高くとも、この2月のキャンプからシーズンを乗り切る基礎体力がなければ、プロ野球選手も大成しないとの同様であるように思われる。

教科の基礎体力が授業を楽しくする
これぞ研究者教員が関わる内容ではないか
指導者本人が文学たる教材の豊かな読者でなくてはなるまい。


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人として幸福度の高い県

2018-02-04
地域定着推進事業
担当の対面講義にて
人としての幸福度の高い「短歌県」へ

今年度ほど多くの仕事を抱えた年も珍しいが、そのうちの一つが地域定着推進事業による講義である。「短歌県みやざき〈ことばの力〉と教育入門」と題して、Web配信型講義と対面授業を組み合わせた構成になっている。本年度後期は、10月の和歌文学会大会開催もあり、教務実習担当であったり、その他も諸々の方面でお声が掛かったり実務があったりと、なかなか配信型講義の制作が追いついていない状況が続いた。それが完結しないうちに、とうとうまとめの対面型講義が先に来てしまった。誠に受講した学生には申し訳ない思いであるが、せめて「対面性」を活かして「みやざきの短歌」の魅力が伝えられるように3コマの講義に臨んだ。

市内にある学生たちも知っている身近な場所に建つ歌碑に刻まれた短歌を扱いつつ、「短歌とはなんであるか?」というテーマについてまずは考えた。学生たちはその地の存在は知っているが、其処に「歌碑」があるとは知らない場合が多い。むしろこうした機会を通じて、身近な場所であるゆえにその由緒などを伝えておくべきであろう。その後は受講者による「恋」の歌の創作時間。互いに自らが創作した短歌を披露し合って、相互批評を試みた。短歌は、今ある思いを素直にことばにするもの、まずは創ってみること。こうした契機や機会こそが学生たちにとって大切であることを再認識した。最後に先月開催された「老いて歌おう ねんりんフェスタ」で、僕自身も出演した「短歌トーク」の映像を視聴してもらい3コマ分の講義を終えた。

県知事も力説する「日本一の短歌県」
報道によれば「生きがい」「幸福度」は全国で指折りと
それが「みやざき」の生きる道なのである。


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「音読・朗読」と「理解」との関係に対する誤解

2018-02-03
理解していないと「音声」にならないか?
「音声」にしながら「理解」が進むことも
身につける力と目的とを見失わないように・・・

本学附属小学校にて、公開研究会が開催された。国語科でも公開授業が2コマ、そして分科会として研究協議が行われた。公開授業では4年生では戯曲教材、5年生では物語教材の授業が展開された。いずれも「音読劇」や「朗読」を言語活動の主軸に据えた授業であり、個人的にも大変興味深かった。「音読劇」といった時に「劇」の部分の要素は何か?(「音読」と「音読劇」では何が違うのか?)という疑問は基本的なようで実に大きいように思われた。「劇」ならば「声」のみならず身体表現全般を含んで、学習者が表現する必要がある。この授業では「あっはっは」という笑い声の発し方が、どう変化してそれが登場人物の心情と結びついているかといったテーマで展開したゆえ、なおさら「表情」が大切である。もとより教材が戯曲、「演じる」要素をもっと学習活動に盛り込むべきであろう。

小学校では概ね「音読」という言い方が主となるが、高学年になると「朗読」という言い方が為されるようになる。それではその違いはどこにあるのだろうか?なかなか現場ではこの線引きが難しい。この日の5年生の授業では「自分の考え方を載せて読む」ことが「朗読」であるという考え方で、物語場面の登場人物の気持ちに対する考え方からして「どのように」読んだらよいかを工夫するといった展開であった。だが、なかなかこの「どのように」を他者にわかるような「表現」にすることは難しい。その「工夫」の内実、いかにその場面を読み取ったかという趣旨も示しておくべきではないかと思う次第であった。協議の中で、「十分な理解をしていなくとも(その理解が論理的に言葉にならなくとも)音読や朗読が上手くできる児童がいる」という見方が授業者から示された。まさしくそこである、多くの指導者が「完全理解」がなければ「朗読」はできないと思い込んでいる。これは高校古典学習で、「文法体系」が理解されていないと「古文が読めない」と指導者が思い込んでいるのに似ている。「理解」は「表現」をすることで、ようやく読む者の腑に落ちて来るのではあるまいか。

「言語活動」の捉え方
実生活で生きて役立つ「ことばの力」とは?
物語・戯曲の虚構の場面に、学習者を「現実に」立たせることである。


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寒さ厳しき球春のあり

2018-02-02
2月1日プロ野球キャンプ解禁
今年は全国的に異例の寒さが続く
せめて球春のことばに暖かさを抱きて・・・

今年で、巨人軍が宮崎でキャンプを開始して60周年になると云う。逆算すると1958年・昭和33年から宮崎キャンプの歴史は続いていることになる。「昭和33年」といえば長嶋茂雄さんが入団した年でもあり、そのことは記憶に残る引退スピーチの冒頭に明言されている。そのONを育て、栄光の9連覇を築き、その後も桑田真澄・松井秀喜など日本球界を代表する選手を産み育てて来たのが宮崎キャンプである。この歴史と伝統を考えるに、昨今はほぼ10日間ほどで沖縄の地に一軍が移動してしまうのが誠に残念である。一昨日には、市内中心部で昨年の日本一覇者である福岡ソフトバンクホークスがパレードを行い、沿道を多くの市民が埋め尽くしたという新聞記事を見るに、宮崎キャンプでの盟主は既に王会長がその座を引き継いでいるようにも思われる。

今月10日にはその60周年を記念して、ジャイアンツ対ホークスのOB記念試合が開催される。昨年のうちから情報を仕入れて既に指定席チケットを確保しており、今から観戦が楽しみである。長嶋茂雄監督対野村克也監督で、ジャイアンツOBも錚々たるメンバーで、またホークスOBは「南海」時代に遡るわけで、往年のファンにはたまらない一戦である。そのように思いながら、誠に残念なのはOB戦の方が現役キャンプよりも期待が高いことである。(少なくとも僕の中では)地元ではもちろん熱烈な巨人ファンも多いが、巷で聞く話には「巨人が来ると寒くなる」と云う、聊か揶揄した言い方がされることが多い。たぶん長嶋さん・王さんらはきっと自らを鍛え抜いた宮崎の地がこの上なく好きなのであろう。ソフトバンクが1ヶ月に渡ってキャンプに専念するのは、やはり市民にとっては心が動く要因ともなる。

さて果たしてOB戦はどんな試合になるのだろうか?
寒さのニュースばかりの中で球春のたより
宮崎という地の一つの生き方がここにも垣間見える


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「締め切り」ありて人は生きたり

2018-02-01
卒論提出締め切り日
一つの生き方のモデルパターン
人生にももちろん「締め切り」があるゆえに

本学部の卒論提出締め切りは、「1月末日17時」と定められている。私立大学と比べれば時期も1ヶ月以上遅く、入試が2月下旬からという国立大学の特権であるようにも思う。「17時」となっているのはあくまで予測であるが、学部「教務学生支援課」が窓口として提出受取をしていた名残であろう。現在は指導教員まで直接提出となってはいるが、僕自身はこの「17時」という締め切り時間が大変重要であると思っている。その大きな理由は、社会は学生時代に考えもしないほど「事務的」であるからだ。思い出されるのは、母校の卒論締め切り。学部事務所が「15時」で閉まってしまうゆえ2日間ある卒論提出日の2日目の「15時」に遅れたら「留年」の憂き目を見ることになる。実際に「15時」前後に事務所に”飛び込もう”として叶わず、留年をしてしまった人を知っている。仲間内では「ともかく15時前に事務所に入る」ことが重要だとされ、当時手書きだった卒論では、事務所内の机で「あとがき」を書いている学生もいたという未確認の目撃情報もあった。

「卒論」の価値自体が既に多くの大学で、過去よりも軽視される傾向にあるように見受けられる。だがやはり「卒論」とは、その人の「大学4年間の生き方」そのものではないかと思う。課題の見つけ方、調査・検証の方法、執筆する作業過程、論の主張などあらゆる要素に、その人の個性が表出することになる。また本日の重要なテーマである「締め切り」もまた然り、逆算をして行動できる段取る力が試されているように思う。社会に出て職場に出ると切に理解できるが、「締め切り」の背後には、多くの人の「次の仕事」が控えている。その進行に思い遣りを持てば、「締め切り厳守」は必定となる。また自戒を込めて記すが、「締め切り」間際まで踠いていて果たして「良いもの」に仕上がるのであろうか?甚だ疑問に思うことも多い。まずは「形にする力」も社会で生きていく大きな要素ではないだろうか。短歌などは、踠けば踠くほど「悪く」なることも少なくない。

自らの仕事量を客観視する
「忙しい」現実社会では必須の自己管理力
人生には誰彼例外なく「締め切り」があることを忘れてはなるまい。


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自由対話読みの効

2018-01-31
定番教材の定番実践を乗り越えろ
名作の奥深さに挑むということ
「対話」に参加してこそ見える自己の読む傾向

年度内ゼミ最終回。4年生は「人生で最後のゼミ」と感慨深けにいつもの演習室に集まった。「最終回に何をするかは4年生が決めるように」した結果、定番教材の「自由対話読み」を実施したいということになった。これまでにもゼミ内で、「走れメロス」「ごんぎつね」「注文の多い料理店」などの小中学校の定番教材を実践して来た。「自由対話読み」とはまさに名の如く、「自由」な発言が全員に保証されていて、どんな着眼点からでも出された「読み」に随所に反応し、自らの意見も表明し、「読み」を多様に深めていく集団討論的な方法である。他者の意見を「納得」して頷くだけでは参加したことにはならず、その都度その都度の対話に自らが「参戦」することが肝要である方法である。

個々の様々な「読み」が提出され、自己の「読み」も俎上に上げることで、ようやく自らの思考の傾向を知ることができる。その基盤となるのはあくまで「個人の読み」なのであるが、それを内に籠めておかないことが重要である。中高の国語授業でよくある光景として、発問して回答を求めると「誰々と同じです」という回答で済まそうとする生徒がいる。だが果たしてその「誰々」の意見と自らの意見は、本当に「同じ」なのだろうか?それを「ことば」にして引き比べない限り、本当に「同じ」か細部は「違う」のかという相対化はできない。「読む」ということは、自己本位な思考を相対化することに他ならず、こうした議論の場で黙っているのは「謙虚」なのではなく、大変自己本位な「傲慢」だと心得るべきであろう。些細なことでも思ったら表明する姿勢こそが、教育の場でも社会の場でも必要な基本姿勢であることは言うまでもない。

高校国語総合定番教材「羅生門」
自由対話読みが暴いた教材の背景とは
またひとつゼミの思考展開の方法が確立した。


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