“ヒト”としての500日間
2012-07-24
谷川俊太郎氏の「空に小鳥がいなくなった日」という詩がある。「森にけものが」「海に魚が」いなくなっても、「ヒト」は、「道路」や「港」を「つくりつづけた」とある。自然とそこに共生する生き物を無視し、“ヒト”は自らのエゴで自らが便利だと考えるものをつくりつづけた。たとえそれが一時的な利便であるとしても。やがて、「街に子どもが」いなくなり、「ヒトに自分が」いなくなるとつづく。それでもなお、「ヒトは公園を」つくりつづけ、「未来を信じ」つづけるとある。最終聯には、「空に小鳥が」いなくなり、「空は」涙ながしても、「ヒトは」「歌いつづけた」とある。この詩が収められた詩集『空に小鳥がいなくなった日』(サンリオ出版)が刊行されたのは、1974年のこと。それから38年の月日が経過した。そして今、「森」「海」「子ども」「自分」「小鳥」は果たしてどうなっているだろうか?「ヒト」は「道路」「港」「公園」をつくりつづけ、未だに「未来を信じ」て「歌いつづけ」ているのだろうか。この詩を読むと、38年前のことばで気付くべくであったことに、まったく気付かずに過ごしてきてしまったのではなかという後悔ばかりが心に浮かんできてしまうのである。僕たちは、なぜ気付かなかったのだろうかと。
自然と“ヒト”は、なお一層隔絶しつづけ、人工的な虚飾の産物のみを自己満足で増殖させつづけている。街は「にぎやか」にちがいないが、「子ども」や「ヒト」の顔は見えない。街の中で、「ヒト」は誰しもが同じことばを発し、同じ行動をしていなければ危ういと感じ、共生ではなく打算と欺瞞に満ちた同調を基底に生活している。もはや「自分」を見出すのはかなり困難な社会となってしまった。僕たちは、なぜそれにも気付かずに、ただ従順にお互いに「自分」を殺し合い、仮面を被った顔で生活しつづけているのだろか。もういい加減に、それに気付いてもいいのではないだろうか。
この500日間で僕たちが体験し考えたことは、その大部分がこうした過去40年~50年の日本社会を見直さなければ解決しないことばかりである気がする。それだけに、自分が生きている社会がどのように動いてきたのかを、僕たちは知るべきではないか。眼前にある現実を見つめた時に感じる喩えようのない矛盾は、こうした過去が強引に「つくりつづけ」てきたものに他ならず、同時にそれに気付かなかった僕たち一人一人の責任なのではないか。文学は語っていた、だがしかしそれを無視しつづけてきた“ヒト”としての羞恥をせめて感じるべきではないだろうか。
今や政治家にさえ、「自分」がいなくなった。
それでも平然と「未来を信じつづけ」よというのか?
「涙ながし」ている「空」を取り戻すには、
僕たちが“ヒト”として気付いて行動するしかないのである。
毎度、飲み物を注文し配達してくれる近所の酒屋さんがある。
昨日、注文すると若旦那が娘さんを台車に載せて我が家の玄関を訪れた。
僕は思わず「お名前は?」「いくつ?」という「人」としての声を掛けることができた。
「子ども」が「街」にいたのだ。
その時、僕は思った。
「まだ間に合う」のではないかと。
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