fc2ブログ

説明過剰からの脱却

2012-07-14
散文よりも短詩型文学の要点を極めた表現に魅力を感じる。冗長になり要領を得ない話や文章よりも、短く絶妙な気付きのあるものを求めたい。元来、個人的にはこのような感覚を重視している。よって教壇に立つ場合も、“くどい”話とならぬように心掛けたいということが常に念頭にあり、全てを語り尽くすよりも、その発言により聴き手が重要な“気付き”を自ら感じるような説明を理想としている。

来週開催の「朗読実践への提案in早稲田2012」へ向けてのリハーサルにも熱が入ってきた。各班の朗読作品もさることながら、このイベントではミニ授業を随所に入れ込んでいる。約5分間で「声」を使ったどんな授業が可能か。そんな可能性を模索する試みだ。今回も4年生4名が、古典近代にわたり様々な教材でのミニ授業を展開する。1週間前にして、その授業内容を実際に展開してもらった。

その際に、多くの学生が「5分間」という時間的制約を伝えてあるにも関わらず、かなり長い時間を要する内容を考案してくる傾向がある。長くなる理由は一つ、扱った作品・作者について全てを説明し尽くそうとするからである。「宮沢賢治はどんな経歴か」「石川啄木の歌風は」「古事記とはどんな文学か」等々、その文学史的評価など知識面までを語り尽くそうとするということである。指導者が「説明」を始めれば、自ずから一方的になり、「知識の切り売り」といった面が否めなくなる。“教員”というタイプの人間は、どうしても「全てをわからせたい」という本能を持っているようにも思われる。

しかし、今回のミニ授業のテーマは、「声」で「文学」をいかに味わうかである。中高生も知っている文学史知識は前提としなければならない。むしろ作品を「声に出して読む」ことから、その特徴を知る機会となる授業が望まれる。ほとんどの学生の考案して来た授業内容から、知識を一方的に提供する「講義」的な部分を削ると、自然と引き締まった「声」の授業としてまとまる。学習者の立場である発表会当日の聴き手。高校生から大学生、そして一般の方々もいる。そんな方々にともに参加してもらい、ともに声を出す授業こそが、今回の意図する内容である。

巷間では、“事前説明”といったことが過剰に行われている傾向が強い昨今。
「聞いていなかった」というクレームへの対応策に他ならない。
だが、果たして〈教室〉という場もそれでいいのだろうか?

一方的に詰め込まれた知識は空疎であり、やがて学習者の中で形骸化する。
だが、自らが文学を「声で読み」気付いたことは、心の襞に刻み込まれる。
そこに参加型双方向性の授業の端緒が垣間見える。

脂肪を削ぎ落としシェイプされた授業。
当日の大学4年生4名のミニ授業にも、乞うご期待である。

発表会開催まであと1週間。
関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/981-389ae340

<< topページへこのページの先頭へ >>