見るは見られる双方向性
2012-07-11
世間では“一方的”なもの言いが氾濫している印象だ。客という立場であれば、最上段に構えた態度で、店に対して自己の不満を吐き出す人々。それは世代を問わない。だが世間という人と人との集合体を考えたとき、“一方的”というのはあり得ないはずである。必ず自分が提供したものには相手の受け止め方があり、その受け止め方に応じて自己の捉え方にも変化が生じて来るはず。双方向性をもった相互関連にこそ、コミュニケーションが存在するのである。面接であれば、面接官は志願者を見るが、同時に見られている。どんな言葉・態度でどんな質問をするか。その内容に拠って面接官の質が問われ、会社の内実を語っていることにもなる。店の客とてまた同じ。どれほど独善的な態度で自己の醜態を曝しているかは、見る人が見ればすぐにわかる。あらゆることにこの表裏一体が存在していることを、忘れている人々が多いのは嘆かわしい。従来これは、「相手の立場になって物事を考えよう」といった成句として、社会の中で語れていたはずなのだが。
『論語』に次のような有名な一節がある。
子曰「己所不欲、勿施於人」(己の欲せざる所、人に施すこと勿れ)
どうやら社会全体が、このような「思いやりの心」を失ってしまったのか?
いや、「思いやり」があっても内に留めておいて表出できないでいるのか?
「いじめ」に関する様々な報道を知るにつけ、痛切な思いを抱かざるを得ない。
僕が日々行っている授業においても、やはり双方向性が第一であろう。
僕は、〈教室〉にいる学習者を見る、
同時にこちらが提供するものは、学習者に見られるのである。
至極当然のことであるが、長い教員経験の中においては、
教壇上からの“一方的”な押し付けを反省することもしばしば。
語る内容・情報提供・試験等の評価対象物・雑談の断片・・・・・。
随所に、双方向性コミュニケーションが存在することを常に念頭に置くべきであろう。
巷間では、周囲の人を見る視線よりも、
携帯画面に注がれる視線の割合の方が、遥かに高くなっている。
携帯は、そのWeb通信機能を介し“事実上”世界と繋がっているようであるが、
眼前のライブ世界を遮断する逆説に満ちている。
それだけに「ライブコミュニケーション」を強く意識せねばならない社会が、
身近に存在しているということでもある。
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