空疎な街並みの未来
2012-07-09
雪除けのアーケードと道路の中央に埋め込まれた溶雪の為の放水設備。夏でありながら雪深い時季の名残を思い浮かべることのできる商店街通り。しかし、そこは閉ざされたシャッターが連続して並び、歩く人影も稀であった。果たして平日はどれほどの店が営業をしているのだろうか?若かりし時の母が勤務していた地方新聞社のある街を訪ねてみた感想である。そしてお決まりのように、高速道路のインターチェンジ付近からその街並みに向かう途中には、巨大駐車場が完備した大手スーパーやチェーン系の飲食店・本屋やセレモニーホールなどが目立って林立している。周辺に居住する人々の動きは、町中心部に向かうのではなく、郊外に重点があるのは明らかである。こうした環境は、ある意味で既に地方の街では、ありきたりの光景なのであろう。東京での都市生活に慣れてしまうと、その明らかな“隔絶”に鈍感になっているだけで、個人商店はシャッターを閉ざすしかなく、大手企業だけがその力をもって商魂を逞しくするという構造が、“砂漠”の中に隠蔽されているだけなのかもしれない。ただ、その社会構造を目の当たりにすると、果たしてこれで日本社会の将来はどうなるのかなどと、顕然とした不安も先立ってしまう。何しろ人が歩いていない、そして子供の姿が見えない。日曜日なら、自転車に乗った子どもや中高生が、街を走り抜ける光景をどんなに偶有性任せだとはいえども、1度ぐらいは遭遇してもいいはずだ。
こうした地方の街並みは、ある意味でアメリカ合衆国のそれと似ている。大手スーパーのモール街による大量販売が、ほぼ地域における商売の権利を独占しているかの様相。強く力をもっている企業こそが、廉価な見た目のいい商品を数限りなく販売する構造。マイナーな個人営業の店は、弱肉強食の理論で自然淘汰されていく。数と力こそ全ての世界。強いものが勝つという、財力や数値が全ての世界なのである。
だがしかし、日本の地方の街並みにそれが嵌まり込んでいる光景には、甚だしい齟齬を感じてしまう。元来、街に住む人々が農業から商売に至るまでに携わり、その地域の人々との親密な交流をもって、“街”が成立していたはずだ。それが今や・・・。
閉ざされたシャッターが居並ぶ光景は、単なる街の色ではなく、そこに住む人々の心の色のように見えてしまい、甚だしい哀切を感じてしまう。
僕たちは、小学校からの教育で「過疎と過密は日本の問題」と習った。だが、それは今や引き返すことができないほどに、その差を拡大させてしまった。そして今後の更なる高齢化と人口減少の波は、こうした地方の街をどのようにしてしまうのだろう。その一方で、都市部の一極集中度は拍車をかけつつ、大地震などの災害想定に脅えながら、人と人との関係が希薄なオアシスなき“砂漠”に、砂上の楼閣を建て続けている。
たぶん、こうした問題は、東日本大震災で被害を受けた
東北地方にもいえることだろう。
僕たちは日本社会の中で、何を見直さなければならないのか。
甚だしきアメリカ化の波に呑まれ過ぎてはいないか。
地方の街並みを見て考える。
この20年間ほどで歩んで来た日本社会の現在。
もはや考え直す“最終ライン”に来ている印象をもった。
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