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敬意の対象の真意

2012-06-19
高校での古文学習において、敬語を文法事項として扱うことがある。特に『源氏物語』を始めとする中古文学を扱えば、敬語文法の認識は不可欠だ。天皇を中心にした社会体制が、言語体系としての敬語を過剰といえるほどに発達させた。時代は大きく転換し続けてきたが、現代でも敬語は日本語の一特徴ともいえるであろう。古典文法で敬語を扱う際に、よく問われるのが「敬意の対象」という点である。その敬語が使用されて、文章の語り手(書き手)・発話者は、誰に対して敬意を払っているかという問題である。

そこでよく高校生が勘違いをすることがある。敬意の対象そのものを上下関係のみで考えてしまうということである。物語上の人物関係を年齢や社会的地位で推測し、その上下関係において敬意の対象が存在するという感覚。それはそれでわからなくもないが、裏を返せば、いかに敬語という言語表現が社会に無意識の上下関係を築いているかという点にも注目すべきであろう。例えば、親代わりとなる人物が子供に敬語を使用する。大人が子供に敬語を使用するはずはないという勘違いである。貴族的な生活環境では、敬語が必定となり、日常的な会話の中でも品性を保つために敬語を使用する。もちろん大人が子供に対して心から敬意を表して養育しているということもあるだろう。敬語は、あくまで語り手の意識が表現されるのであり、その多くが社会的上下関係を基準にしてはいるが、決してそれのみで、敬意の対象が決定するわけではない。

最近、政治家の過剰な敬語がたいそう気になる。議論をする議員間での質疑応答やメディアへの発言において、過剰ともいえる敬語使用が実行されているように感じる。自らの意見・主張を通さんがために、相手に対してへりくだることで、抵抗を少なくしようとしているような“迎合”のように見えて、あまり好感が持てない。また国民に対して、「十分過ぎる程に敬意を払っています」という態度を見せることで、どんな主張や決定を下しても、抵抗がないようにしている“腹黒さ”を感じるのは、へそ曲りな受け止め方であろうか。「・・・させていただく」というような政治家の発言は、敬語として果たして妥当なのかどうか。巷間には、消費者の立場を尊重し潤滑な営業を進めようとするサービス業などにおいて、こうした物言いが大勢を占めるようにもなっている。そこには、消費者への敬意というよりも、消費者からのクレームを避けるための前提があるようにも感じられる。自らが「・・・させていただく」と下になり、表面上相手方を立てるという意識である。それは心からの「敬意」という範疇ではなく、もはや「社会的関係」を重視しているといえるのではないだろうか。そのサービス業敬語を、そのまま政治家が使用する。まったく何に対して真に「敬意」を払っているのかがわからない、おかしな敬語表現が多用される。


18日も、TV番組に出演した細野原発事故担当大臣が次のように語ったという。

「そこで、たくさん被曝していただいたという状況ではないということですね。」

3.11事故直後の、浪江町の方々の避難に際して避難方角が示されなかったことに対する答弁であるそうだ。言葉尻を捉えて批判することばかりが目立つ日本の政治。もはや言葉尻も捉えたくないほどの感情が沸起こるが、要は「社会的関係」(自己の立場擁護の為といえば一番端的であるが)を基準に敬語を使用するのではなく、人間としての「真意から敬意を払いたいかどうか」という意識が問われよう。

場の社会的関係を、まずは読み取る日本社会。
人間として相手に向き合い、心から敬意を表明するかどうかが重要だ。
敬語は社交の具であると同時に、
日本人の美しい心を表現した体系であるはずなのだが。

政治家の過剰な敬語使用にも、社会の歪みが表出している。
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