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思考停止の露顕―「当然」という意見の述べ方

2012-06-13
「・・・は当然のことだ」などという言い方で意見が述べられることが無性に気になる。無条件に論理的な理由も示さず、その内容がどうあっても正当であるかのように、意見を押し付ける強制のキーワードに他ならないからだ。大概が、「当然」を使用した意見には根拠や理由が示されることはない。場の流れや雰囲気、内輪の閉塞的な感情により醸成された〈空気〉を、相手に無条件に従えと強制しているに過ぎない。ましてやこれを政治家などが、国会という正当な議論の場で使用することには、これ以上ない違和感を禁じ得ない。

手元の辞書に拠れば、「当然」とは次のようにある。

「ものの道理(事の成行き)から考えて、これ以外(の結論)はあり得ないと判断する様子。」(『新明解国語辞典第6版』三省堂)

『新明解』にしては、あまり“毒”のない書き方である。
「道理」といえば、ある思考に照らし合わせて、妥協のない議論が展開された“ような”過程が感じられるからである。だが、裏を返せば、この「ものの道理」という言い方にしても、ある観念を押し付けるには格好の語彙といえるであろう。

『源氏物語』若菜上には、若い女三宮の降嫁を受け入れた源氏が、婚儀の三日間において紫上に対して「今宵ばかりは、ことわりと許したまひてむな。(今晩ばかりは、あなた(紫上)と一緒にいられないことも、もっともな道理であるとお許し下さいましょうね)」と語る。それに対して紫上は、「自らの御心ながらだに、え定めたまふまじかなるを、まして、ことわりも何も。(ご自分のお心さえ定めかねていらっしゃるようですのに、まして私には、道理だとか何だとか(どうしてわかりましょうか)」と応える。源氏は自分の心の矛盾や葛藤に半ば気付きながら苦悶しつつ、現在の状況を愛する紫上に押し付けようとする。この場面でも、「ことわり」=「道理」という語彙により、まさに理不尽な強制が浮き彫りになっている。紫上が逆手にとって返したことばにこそ、「ことわり」=「道理」=「当然」への批判が読み取れる。

要するに、「当然」という語彙を使用した時点で、当事者の思考停止が露顕されるのである。様々な方面からの板挟みな状況、場が造り出した〈空気〉、それに自己の利益を考えた浮わついた心。そんな諸条件を正当な論理として語れなくなると、「・・・は当然」と決めつけて、意見の押し付けを敢行する。内輪の実に利害関係に富んだ語れない論理を、「当然」という語彙は一気に解決してくれる。だがしかし、あくまで自分の中では、「当然」だが、他者にとっては、『源氏物語』で紫上のことばにあったように、「ことわりも何も」(道理だとか何だとか)と、どうしてそうなるのかが、まったく不可解なままなのである。双方が「当然」といい合うことで、十分な議論が為されるかは甚だ疑わしい。国会答弁などを聞いていても、最近は「当然のこと」と最後に述べることが目立ち過ぎる。

当事者の狭窄的な視野から得られた感情的な結論を強制する語彙。
はてまた、当事者の思考停止を世間に対して露顕する語彙。
「当然」という語の使用においては十分に慎重でありたい。

政治・社会・教育の諸分野において、「当然」が横行すれば、
愚への扉が確実に開かれると感じてしまうのだが。
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[2012/06/13 11:57]
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