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漢字への好奇心はありますか

2012-06-08
「懇ろ」というと語彙として、あまり日常的には使用しなくなってしまった印象がある。「ねんごろ」と読んで、「心を込めて、熱心であるさま」や「心が通じ合って、間柄が親密なさま」といった意味である。更には、「懇ろになる」といえば、「男女が特に親しい間柄になる」といった意味。「懇」は常用漢字であり、漢字検定2級程度の問題であれば「読み・書き」ともに要求される範囲の文字であろう。しかし読書量にもよるであろうが、高校生が、こうした漢字をすんなり覚えるかというとそうでもない。「墾」との書き間違いも目立ち、(このWeb上の文字表記を見て、どこが“書き間違い”か即座に認識できないようだと、漢字への意識が希薄になっている初期症状である)訓読みの場合は既に“古語”のような領域と感じているにちがいない。

「懇」の字を解体して上下に分割してみる。上半分は、深くはいった根に十分に手を差し込むことを表現し、それに部首としての「したごころ」であるから、「心を込めて深く念を押す」という意味の文字となる。前述したように誤字が多い「墾」は、「力を込めて根まで深く耕す」という意味であり、部首は「つちへん」である。「開墾」や「墾田」(「永年私財法」など歴史的事項として学習するゆえ)といった語彙に慣れているせいか、高校生の書き取り誤字として「土(つちへん)」が頻繁に顔を覗かせる。

高校生にあらずとも、日常的には「懇親会」「懇談会」「懇願」などと比較的頻繁に使用する漢字であるにもかかわらず、「ねんごろ」という訓を意識している人は少ないように思う。PCによる文章作成時には、「konndannkai」「konnshinnkai」「konngann」と入力すれば、部首が「したごころ」であることを意識することもなく、正確な文字を使用することができる。手書きをしなくなったことで、漢字の各パーツ部分の構成を意識せずに、簡易に使用できるようになっているわけだ。こんなところに、言語文化の衰退を嘆くのは、もはや時代遅れということになるのだろうか。

中村雄二郎氏と山口昌男氏の共著『知の旅への誘い』(岩波新書)において、中村氏執筆部分である「Ⅰ知の旅へ 1好奇心―知的情熱としての」では、「文化や学問の原動力」「知を開く」のは、「知的情熱としての好奇心」であると説かれている。「言語や概念体系の精密度のちがい」は、「知的能力の差」ではなく「(ものごとへの)関心の強さの差」であるとされる。つまり、「興味がないと認識もできない」ということだ。日本語という「言語や概念体系」で考えたとき、「雨」に対する呼び方が多様であるのは、日本文化論としてもよく指摘されることである。季節ごとに異なる降り方、時間帯、捉え方において、日本人は高い「精密度」で「雨」を認識してきた「文化」を持っていた。ところが、現代ではこうした日常的であった「文化」を、大概、疎かにしている。

漢字“文化”もまた同じ。PCで打ち込めば変換できるという意識のみが横行すると、漢字一字一字への「精密度」ある理解が失われる。少なくとも、“変換”という選択をする際には、漢字一字一字が所有する“文化”に立ち返り、判断する意識を保ちたいものである。同時に、その為には漢字学習の方法を、「単なる暗記」とするのではなく、語源や構成を精密に理解し一字一字が“物語”を所有している意識を喚起させるべきであろう。高校生に対しての「漢文」授業で、こうした“漢字語源物語”を話すと、多くの生徒が“初耳”だという反応となる。小学校段階の習得期からして、個人の単純作業のみに依存することなく、漢字語源にたいしての「好奇心」を駆り立てる工夫が求められる。

漢字への好奇心は、
日本文化への好奇心でもある。
古典学習を早期教育に導入するのもいいだろう。
また、英語学習の早期化も既に動き始めてしまっている。

だが、やはりもっと肝心なところで忘れている工夫がないかを、
点検すべきではないだろうか。
昨今の社会的な好奇心が、実に軽薄な方向性であることを憂えつつ、
漢字文化を守ることに一役を担いたい思いである。
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