日本古典文学の可能性を考える
2012-05-27
緩やかな歩みで大きなホールの舞台に登壇した90歳になるドナルド・キーン氏。中古文学会春季大会と東洋大学(125周年記念講演)の共催による講演を拝聴した。「日本古典文学の魅力」と題した講演では、御自身が「日本古典」に魅せられた経緯が、流暢な日本語で語り出された。米国の教育において「文学」の古典は「ギリシア」であり、なかなか東洋のものには目を向けなかった若い頃。戦争も経験し、より「日本」のものは読んではいけない風潮も体験する。最初は『論語』に触れる程度であったが、ある時、『源氏物語』に出会い、その魅力の虜になる。愛した女性を決して忘れない光源氏の行動。物語中に“人殺し”が一度もない平安朝の穏健な空気。まさに日本的美意識にキーン氏が目覚めた流れが、そのお話から深く窺えた。そして更には、『徒然草』の「世はさだめなきこそ、いみじけれ」という一節にみる普遍性や、笑いを伴う随筆の魅力。芭蕉発句のもつ、閑寂の境地。いずれも「あいまいさ」というのは、「豊かさのしるし」という捉え方が実に印象的であった。その後、米国コロンビア大学のハルオ・シラネ氏による「世界へ開く和歌―言語・ジャンル・共同体」と題した講演。日本文学の「翻訳」は世界に知られているが、「研究」はまだ世界には知られていないという。そんな観点から、和歌研究を他国の文学との関係性をもって研究すべきであり、普遍語としての「漢詩文」との関連から、地域語である「仮名」により発展した文学であるという視野が必須であるという立場を説いた。日本古典文学研究が国際化するには、①他の研究にも触れる。②海外の研究者と共同研究をする。③自分の範疇以外の人々と触れる。という三点が重要であると指摘。その後のシンポジウムでもシラネ氏は、日本の研究者も英語により外国で発表する必要があることを強調している。また、社会に「古典文学研究」の意義を認識してもらう為には、「環境」(例えば「里山」)などの視点から位置づけるという発想が必要であることも説いた。文学の社会における可能性を考える上で、大変示唆的な内容であった。
更に、阪急文化財団逸翁美術館館長・伊井春樹氏による「日本古典文学国際化への戦略」と題した講演。日本国内の状況そのものにおいて、人文学研究が衰退気味であることの指摘。また人口減少による大学環境の今後の変化、それに伴う研究者ポストの確保の問題等々。「人文学研究の元気」を回復しなければならない状況に直面している厳しい状況を、柔和な語り口で訴えた。その上で、研究者として大学授業の工夫をはじめ、「古典文学」を上手くアピールすることの必要性を説く。また地域の人々との繋がりや留学生の受け入れなどを通じて、「人と人との関わり」を重視した「日本古典文学」の活性化を求めた。
第二部は「国際シンポジウムー日本の古典をどう読むか」
進行役に、国文学研究資料館館長の今西祐一郎氏。
パネラーは以下の通り。
韓国・檀国大学校日本研究所教授・キム・ジョンヒ氏
ブリティシュ・コロンビア大学アジア学部助教授・クリスティーナ・ラフィン氏
ケンブリッジ大学アジア中東研究学部研究員・レベッカ・クレメンツ氏
東洋大学文学部日本文学文化学科准教授・今井上氏
こうした方々から、各国における日本古典文学研究の事情なども紹介され、国際化の中にどう位置づけるかという視点が提供された。
韓国における『源氏物語』を中心にした「日本古典文学受容の現状と課題」。青少年の推薦図書として毎年必ず選ばれ、いくつかの韓国語訳も出版されているという事情。それぞれの翻訳の問題点を取り上げつつ、『源氏物語』という文化を受容するという意味での魅力とは何かという視点を、隣国・韓国における事情がどのようであるかを知る契機となった。
欧米の研究者からの指摘は、ある意味で大胆であり、それだけに殻の中に籠る我々「日本古典文学研究者」にとっては刺激的な発言が続いた。「国際化」は理念ではなく、本質的に何をどのようにしたらよいか。他分野の研究者との交流が自然に行われる欧米の大学の状況。「日本文学」という枠ではなく「東アジア文学」という中で、歴史や背景を考慮した欧米での研究。そのような視点から、共同で研究と教育を進化させる必要性が説かれていた。中でも、欧米に多数存在する「日本漫画オタク」を「日本古典文学オタク」に変えるのが私の仕事であると言って、会場の笑いをとったラフィン氏の発言には、ある意味で核心的な要素が含まれているのではと感じた。
総じて、「国際化時代」などと、敢えて理念を掲げて喧伝するのではなく、我々研究者が、文化・歴史・言語等々の様々な分野の垣根を越境し、「古典文学研究」に関わっていく必要性を痛感した。「日本古典文学研究の論文は、内輪の研究者に向けてしか書かれていない」というシラネ氏の指摘が、全てを物語っているように思う。翻って真摯に現状を見つめてみるに、世界的視野以前に、日本国内で「古典文学研究をどうするか?」ということが、緊急の課題であるということを切実に感じさせられた。
それは、研究者のみの問題ではなく、
社会が古典文学をどのように受け止めていくかという問題でもある。
当然ながら、研究者が社会にこそ訴える方法を模索し実践なければならないことを前提としてではあるが。
また、中学校高等学校で行われている古典教育のあり方を、
根本的に点検する必要も急務だ。
果たして「古典授業=文法の時間」になってしまい
大量の「古典嫌悪学習者」を産み出していないだろうか。
海外における研究者の視点から、「古典文学研究」を見つめる機会を得て、
国語教育研究と並行して、日頃から考え模索している一研究者として、
まさに「背水の陣」で課題に立ち向かわなければならないことを自覚した1日であった。
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