身体に内包する七五音の響き
2012-05-26
授業開始時の即興ワークショップを、大変重宝しているこの時季。前期も折り返し地点にさしかかり、受講学生同士の中で“親しみや笑い”が求めたくなる雰囲気がある。それでお互いの個性を更に深く露呈し合い、コミュニケーションを深める。内なる自分に籠っていては、自己表現にも限界がある。教室の机・椅子を端に追いやり、受講者全員で大きな輪を作る。ある起点となる者を指定して、そこから順番に五音、次の者は七音、更に次の者は五音、そして七音を2者連続で思いつくままに「声」で発して行く。5人まで行ったら、改めて起点の者から、ゆっくり発したフレーズを繰り返してもらうと、一首の和歌(短歌)のようになっている。意味連鎖の関係で前の人が言ったフレーズに類似した内容をいうことが多いのだが、むしろ意外性のあるフレーズを発言してもいい。両者の関係において「正解」があるわけではない。あくまで、「五音・七音・五音・七音・七音」というリズムを生み出し、ことばが紡ぎ足されていけばいい。
暗誦している百人一首の断片を言うものもいれば、口語的な今の心境をことばとして発する者もいる。その意外性の化学反応が、参加者の笑いを誘う。もちろん、自分の順番になった時に、思案して詰まってしまう者もいる。だが、どんなことばでもいい、身体に内包する七五音の響きが、豊かであるのは、韻文学をいかにたくさん読んでいるか否かという、それまでの自分の日常的な蓄積でもある。日本語として一番耳で聞いて心地よいとされる、“七五音”のフレーズが、豊かに貯金されており自然に反芻できる身体性を醸成しておくことは、文化そのものを背負うことにもなる。
古典的な優雅なことばと、日常での口語表現が偶然にも連鎖することもある。
その齟齬にこそ、「正解」のみを追い求めない“遊び”の豊かさがある。
古典文学を“再生”させるためには、まずその入り口で面白いと感じる心を養いたい。
授業後に、数人の学生が自然と教室に残り、「学校で学習する古典(国語)はなぜ面白くないか?」という議論をしている。教室備付のPCなどを片付けながら、時折、僕自身の意見も投じてみた。彼らの「古典教育」への思いはかなり熱いものがあった。こうした教員志望の学生にこそ、是非とも現場に行って「古典教育再生」に取り組んでもらいたいと願う。
同時に「現場」が、こうした学生時代に盛んな教育への情熱を削がないような環境作りにこそ腐心してもらいたいと願う。
現場教員・研究者・教員志望学生など、そこに関わる全ての者たちが、本気で古典教育に活力を注がないといけない時期が来ているようである。
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