都会で自然とどう共存するか
2012-05-25
Twitterを見ていると、或る方が「家の中にツバメさんが2羽きた。」とあり、「ひとしきり居間を飛んでドアにとまってるよー。出れなかったらどうしようー」と続けていた。そんな季節になったものかと、ほのぼのと感じると同時に、自分の部屋にツバメが入り込んで出ないで居座ったらどうしようなどと、リアルなことも考えてしまった。決して何ら実害があるわけではないが、都会での生活では自然との共存に対して苦手意識が先行する。部屋の中にツバメの巣ができて、糞を大量に散布し、睡眠時間内に雛が鳴いていたり、はてまた透明な硝子窓に激突することを憂いていては、まったく自分のペースで生活などできなくなるだろうと想像を巡らした。軒先という共存空間への意識が薄れ、都会生活は自然と隔絶した生活をよしとする。そのような姿勢を理念として疑問視しても、実際に部屋の中に鳥が住みついたらという現実を受け入れる勇気はない。虫等の生物であっても、敵視して排斥するのが都会生活の基本であるかもしれない。
かなり以前に、隣に大きな樹木があるビルの外階段を3階から2階に降りていた時、いきなりカラスが耳元で大きな声を上げて接近してきて、僕の脳天あたりを足で蹴りつけ、そのまま樹木の方へと飛び去ったことがある。季節は確か5月か6月頃。まさに産卵と雛を養育する頃合いである。たぶん自分の巣の縄張り内に入ってきた僕を、外敵だと見なし母親カラスが、先制攻撃に出たのであると思う。後から冷静に考えてみれば、ほのぼのとした“物語”なのである。
しかし、カラスの急襲を体験した僕は、一気にカラス嫌いになった。なにせあの爪の嫌な感触が頭皮に残り、最接近状態で鳴かれた声の異様さは、今でも記憶に鮮明である。幸い視野に入る方向から襲われなかったので、黒いグロテスクな全身を目に焼き付けることはなかったことが救いである。何も巣を破壊しようなどと考えてもいないのではあるが、都会のカラスにとっては、人間はいつでも巣を破壊する“天敵”と認識するのであろう。その上で、双方の生活空間においてふいな越境が起きると、このような事態に見舞われるようだ。この季節のカラスには、ご用心である。
いずれにしても、人間は自分たちの為に“世界”が存在していると考えがちな傲慢な生物である。都会であっても様々な生命が息づき生活の場として共存しているはずだ。その実像に接する体験によって、感情的に相手を嫌悪するのもまた人間の勝手な感情に他ならない。カラスには罪はないのだが、どうしてもカラスは好きにはなれないというジレンマがある。
自然との共存。
理念のみではなく、身近な体験からせめてそんな意識を持ってはいたいと思う。
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