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「そのこころもて」―室生犀星「小景異情」を読み直す

2012-05-11
その場にいると、“今”を意識できない心。
ふと、ある環境から離脱すると見えて来るもの。
順応性の成せる業ゆえか、客観的に自分を見るには時空を越える必要がある。

室生犀星の有名な絶唱「小景異情」
「ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの」

冒頭の二行のみを読むと、作者がふるさとから離れ都にいる時の詩と読める。
だが、最終二行で
「遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや」
と「みやこ」に帰りたいという願望を表現する。
その強調具合からして、作者は「ふるさと」金沢にいると解せる。

以前より、制作場所が“「都」説”と“「ふるさと」説”に二分する解釈を生む。
犀星自身の書いた文章や発言においても、それが曖昧にされていることも大きな要因だ。
犀星は21歳の頃に上京し、その後、帰郷と上京を繰り返す。
解釈という“方式”の性格上、状況を“特定”したがる傾向があるが、
もはや、往還する犀星の「こころ」そのものが、この詩表現を生み出していると考えたい。

「よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや」
「都」にいてどんな生活苦があろうとも、帰るべきところではないのだなあという感慨。

「ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ」
まさに「遠きにありて思ふ」「悲しくうたふ」ことの具体的な心象風景。
実際に「都」にいてこのような経験をもしたであろう、
はてまた「ふるさと」で「都」にいる自分の状況を想像しているとも。
詩は「こころ」の在り処を表現するものである。

犀星が上京したのちに居住したのが「文士村」と称される東京都北区田端。
僕自身の生まれ故郷でもある。
犀星が「ふるさと」を「思ふ」「うたふ」場の土地柄そのものを深く知る。
そんな思い入れもあって、小学校時代から親しんできた詩である。

空間的な解釈のみならず、
「帰るところにあるまじや」は、決して戻れない人生の時間経過とも深読みできようか。
詩人としての決意と都鄙を往還するこころ。


離れてみてわかる“今現在”のありがたさよ。
想像力が人生を豊かにする。
こころは時空を駆け巡ることができるのだ。

やはり詩は面白い。
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[2012/05/11 10:09]
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