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相手の眼を見てしっかり聴きます

2012-05-10
僕が通っていた幼稚園の園長は、常々次のようなことばを園児とともに復誦していた。
「人の話を聴くときは」
(園児とともに)
「相手の眼を見てしっかり聴きます!」
これを何らかのお話の前には必ず呪文のように唱えていたのだ。
それゆえ小学校に上がってからも授業中には、先生の眼を見て話を聴く習慣ができていた。

僕のはるか(?)後輩に水泳選手として有名な北島康介さんがいる。
彼がインタビューなどの折に、ギョロとした眼差しをしっかり相手に向けて喋るのは、
やはり幼稚園時代の経験があるからかもしれない。


スピーチクラスの授業で、学生と討議していて、
「眼を見て話す」ことと「身振り手振りの度合」が話題に上った。
クラスは留学経験者が9名で、海外経験をした直後であるがため、
特に日本人としてのコミュニケーションのあり方に自覚的である。
そして不思議と、いや必然的に「相手の眼を(十分に)見て話す」学生が多かった。

しかし、時と場合に応じて「相手の眼を見過ぎる」のはどうなのだろうか?とか、
「身振り手振りが過剰になる」のはどうなのだろうか?という話題になった。
日本社会では、それがマイナスに作用する場合もあるのではないかということである。
例えば、面接の折には集中するように「相手のネクタイを見る」ように指導を受けたとか、
過剰な身振り手振りが相手に落ち着かない印象を与えるのではないかという懸念である。

日本文化では、直立不動をよしとする傾向が強い。
国語・音楽などで「声」を意識的に出す授業場面においても、
基本的に「直立不動」的な姿勢が必然的に要求される。
演歌歌手をみれば、多くは(特に男性歌手は)直立不動のスタイルで唄う。
スポーツの試合前の国歌の場面をみても、
他国の選手は身体を揺らしたりすることも目につくが、
日本選手は直立不動で厳粛に国歌と向き合うことが多いだろう。
もちろんそれは、
国歌の曲調などを含めて、日本文化の特徴が表象的に現れた場面であるともいえる。


「眼は口ほどにものをいう」とも
相手の眼を見て話すことが、過剰であると解するのは現代社会の傾向なのだろうか?
むしろ、巷間で多くの人が「相手の眼を見て」話せなくなってきている。
そのうつむき加減の身体は、注視の大半が携帯電話の画面に向けられ、
リアルなライブ性をもって、相手の眼に向けられることが少なくなっている印象を持つ。

身振り手振りもまた同じ。
「横並び」で「突出しない」のを良しとする社会的傾向が、
相手に訴えかけるコミュニケーションの具を束縛する。
それは政治家などの話でさえ、「直立不動」の「原稿読み」ばかりである傾向からも窺える。

国際化した舞台において、日本文化の利点もあり欠点もある。
その両面において自覚的になり、場面に応じたコミュニケーションに対応できる力。
「語る文化」ではなく「察する文化」である特徴のどんな点を活かしたらよいか。


留学経験がある学生とともに、今後もスピーチのあり方を模索することで、
僕自身も深く意識して考えていきたい課題である。
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