「自分の感受性くらい」再考
2012-05-09
ことばを通して人は様々なことを感じ取る。好ましいこともあれば、好ましくないことも。
感受性の度合いが鋭敏であればあるほど、
良いことも受け止めるが、悪いことも耳に入る。
それでもしかし、受け止めようとする側の人でありたいと願う。
感受性の眼を閉ざしてしまったら、生きていく道自体が闇となるだろう。
近現代詩の文学史を振り返りながら、
あらためて茨木のり子の詩のことばを噛み締める。
今の世情に、今一度このことばを打ち込みたい衝動に駆られた。
「自分の感受性くらい」
茨木のり子
「ばさばさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし」
今の世の中、人は「乾いてゆく心」で、「気難しく」、「苛立ち」続けている。
しかも、それを全て周囲のせいにしている。
それはみな、
「みずから水」をやらず、「しなやかさ」を失い、「なにもかも下手」な自分のせい。
「初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが、ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性ぐらい
自分で守れ
ばかものよ」
巷間には、
「ひよわな志」で、「わずかに光る尊厳」も敢え無く「放棄」してしまう人が溢れ返る。
茨木のり子の感受性は、見事なほどに“今”の世相を「ばかもの」と称し、
警告を発していた。
文学を感じ取り
詩を読む心ぐらい
自分で守れ
ばかものよ
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