文字を刻む身体感覚
2012-05-02
デジタル化の進行で、「文字を刻む」という感覚から遠のいている方も多いであろう。ペンで一文字一文字、紙に書きつける。そのペンの角度・筆圧等の身体的状態によって、刻まれる文字にも大きな変化が生まれる。筆記具の選択も重要だ。ボールペン・シャープペンが頻用されているであろうが、万年筆・インク付ペン・毛筆などと連ねてみると、一般的にはあまり使用されなくなってきてしまった筆記具も多い。少なくとも、400字詰原稿用紙に、万年筆などで文字を大量に記したことがあるかないかの経験の差異によっても、その感覚は大きく違うであろう。だが、卒業論文などで400字詰を80枚以上という規定に沿って執筆したか否かといった世代論だけで、この問題を棚上げにすることには、やや気がひける思いがある。(ちなみに僕は400字詰250枚程を手書きした経験がある。)漢字文化圏には、「書」という文字芸術が存在する。僕は、学生時代に書道サークルに所属しており、そこには留学生が入部してくることも多かった。彼らは一様に熱心に練習会に参加し、半年もすると半紙に四文字程度の作品を展覧会に出品した。彼らは日本人以上に練習会で心を澄まし、墨を磨り・筆を執り・紙に文字を刻んでいた。その身体感覚そのものに、日本文化の一側面が確実に存在していたからだろう。だが、今やそうした感覚を、僕たち日本人は、あまりに疎かにしていないだろうか。
かくいう僕も、最近は筆を握ることは稀少だ。せいぜい筆ペンは常に常備し、封書の宛名書きや、卒業生の寄せ書きなどになると、心を込めて文字を刻むようにはしている。また年賀状の宛名は、万年筆でというこだわりもあり、1枚1枚はがきにインクで文字を刻む。そこには格段の差異をもって、伝えようとする心が存在する。かなり以前に、年賀状の宛名を全てPCソフトに委ねたことがあったが、1回実施したもののあまりの心なき感覚に襲われて、次年度から再び万年筆を執った。忙しさの中で作業効率をどう考えるかということであるが、文(ふみ)のあり方と作業効率のどちらを優先するかという意識の問題でもある。
それでも勿論、電子化の恩恵も甚だ享受している。小欄の文章作成はいうまでもなく、著書・論文執筆に使用する“筆記具”は、PCの“キーボード”である。もはや文章を書く身体性は、確実にキーボードが担っている。文字盤に向かえば文章を考え、構成し、纏めるという感覚が、無条件に起動する身体性ができている。電子化なくして仕事もできないというわけである。ゆえに電子化の有益な部分を否定するどころか、更に深く享受したいとも考えている。
それだけにやはり、万年筆や毛筆を使用しインクや墨で文字を刻む感覚を維持して行きたいと強く思う。チョークで黒板に文字を刻み付ける感覚も、身体的に大変好ましい。そのチョークが減り行きつつ文字に変化して行き、その文字に多くの瞳が注目する感覚というのは、やはり「教師」という仕事の範疇において、実に象徴的な行為だと感じる。心余りてということなのか、だいたい僕が授業で板書したのちは、日直の生徒がそれを消すのに苦労するのだといわれることが多かった。たとえ消したとしても、うっすらと文字が残るほどの筆圧(チョーク圧)で、文字を刻むのが通例であるらしい。
このように考えてくると、更に筆の感覚が恋しくなった。
筆圧・筆触によって様々な文字の表情を刻む文化を失ってはならない。
少なくとも、文(ふみ)を書く際には、万年筆か筆の使用と心に決めておきたい。
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