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禁じられた声―パート2

2012-04-28
人間は生まれた瞬間に声を上げる。その声が、生命の基盤となる呼吸を確認する手段でもある。その時点から、僕たちは止まることなく呼吸を続けている。その吸排気の通り道に声帯を所有し、呼気によりそこを振動させ声の素ができる。さらに口腔や唇の形を多様に変化させて、声を言語に変化させていく。この身体的構造を僕たちは充分に自覚して生活しているわけではない。

ゆえに「禁じられた声」という状況を作り、基本的な欲望を奪うことで見えてくるものがある。もちろん、「静かにする」という状況を強いられることで、社会的生活を学ぶことにもなる。〈教室〉において「静かに!」という命令が絶えることはない。授業の中に「人の話を聴く」要素がある限り、欲望のままの発言は控えなければならない。だが、その延長で必要不可欠な声までもが抑制されてしまう。声で伝えるべきときは、はっきりと自分の考え方を他者に伝えるべきである。「静かにすることをよしとする」〈教室〉の掟は、過剰に作用し大切な「声」を奪う。

敢えて「声」を使わずに、他者とのコミュニケーションを取る経験をすることも大切だ。声を発することを禁じて、〈教室〉内で集団を構成する。大学であれば、学年ごとに輪を作り、更にその集団を誕生日順に並べ替えていく。数字という情報を整序すれば可能な順列なので、指を使用すれば問題なく並べ替えは可能だ。グループワークをする入り口で、「禁じられた声」を経験することで、非言語コミュニケーションの重要さを体験することにもなる。

必要不可欠な場面で、自らの生を乗せた「声」を発する。
この非常に基本的な社会生活のあり方が危うい場面がある。
日常生活の中で起きた、様々な情報について知人を通して聴くにつけ、
公共の場での「声」の存在に不安がある。

料理を注文する際に、1度も「声」を発しない。
電車の中、ある意図をもった席譲りの場面で、
意図しない人が座り込み、譲った人の意志が無視される。
その親切な意図を理解していたはずである周囲の人も、「声」は発しない。

携帯端末という、自己の世界観を凝縮した装置を持っている影響も大きく、
社会から必要な「声」が消えて来ている印象がある。


芥川の小説『杜子春』で、主人公が「声」を禁じられる意味を、
改めて深く考えてみたいと思う。

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