禁じられた声―「杜子春」の叫び
2012-04-21
中学校教科書に採録されることもある芥川龍之介「杜子春」を改めて読み直している。芥川生誕120年・没後85年という節目であるという今年、この作品を朗読としてどのように表現しようかを模索する為だ。著名な作品ゆえに多くの方が、そのあらすじはご存じであろう。ただあらすじを知っているだけでは理解できない深みがあることを再発見すべく、声での表現を目指している。中学生に読んで欲しいという願望から、教科書にも採録される作品。改めて“大人”として読んだとき、社会的経験で手垢にまみれた精神を確実に揺さぶってくれる。これが名作たる所以であろう。中学校教材というのは、中学生に適しているという観点から採択されるのであろうが、同時に生涯の中で改めて再読したときに、思春期時点との受け止め方の違いを、自己の中で定点観測するという効果も発揮する。
小説で杜子春は、仙人となるべく大きな“課題”が与えられる。それはたとえ命が奪われても、声を発することを禁じられるという苦行である。声を出すことを忌まわしいと避ける風潮さえある現代社会の様々な場面において、人間の根源的な本性として、「声を出すこと」の大切さを実感させてくれる。地獄という特別な舞台での想像を絶する責苦。たとえ自己の肉体がどのようになろうとも、杜子春は決して声を出さなかった。こんな場面が小説の重要な要素になっているものを、「声」で表現すること自体に、大きな矛盾と葛藤が表現者を襲う。
禁じられた果てに杜子春が出してしまった声。
「「お母さん。」と一声叫びました。」
小説のこのくだりは、いつになっても心が熱くなる。
直前にある「懐かしい、母親の声」の内容を自己の体験と重ねれば尚更だ。
「大金持ちになればお世辞を言い、貧乏人になれば口も利かない世間の人たち」
と比べて母親の声は際立っていた。
そこで杜子春は禁忌を破り、声を出してしまうことで、
金持ちにも仙人になることにも人間として意味がないことを悟る。
ただ「人間らしい、正直な暮らし」を「晴れ晴れと」求めるようになる。
小説のむすびで、鉄冠子(仙人)が「愉快そうに付け加える」ことば、
「泰山の南の麓にある一軒の家」。
小説の場外で、杜子春はどのような行動に出るのだろうか。
読者の想像を存分に働かせる余白を、芥川は丁寧に用意してくれている。
これからしばらく時間を掛けることになるが、
時折、この小説を朗読として表現する過程をご紹介していくことにしよう。
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