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阿刀田高著『日本語を書く作法・読む作法』(角川文庫)

2012-04-16
昨日の小欄で、「作法」ということばで書籍検索をすると、多彩なものが発見できると書いた。中でも2011年4月刊・阿刀田高氏の『日本語を書く作法・読む作法』(角川文庫)は、ことばと日本語に対する向き合い方を、氏がわかりやすく綴った知的エッセイ集である。開巻一番で「文章を書くことは、小説家を生業としていながらこの説明はむずかしいけれど、あまり好きではない。」といった「告白的文章作法」からして刺激的である。読み進めると「あまり好きではない」ゆえに小説家としてどうしてきたかという、知的模索に自然と惹きつけられていく好著である。

「読む作法」の中に、「朗読事始め」というエッセイがある。阿刀田氏ご自身は「強い関心は抱いている」けれど「鑑賞者のレベル」であるという。愛妻の慶子氏が、十数年前から日本点字図書館の朗読員となって以来、身近で「朗読」について考え、「朗読21の会」を主宰するようになった経緯などが綴られている。現代の短編小説の書き手として、阿刀田氏が「朗読」との関係を実践的に考えているのは、大変興味深い。僕自身も、昨年10月に「朗読21の会」の公演をライブで聴いた。

エッセイの中に「(これは告知文にも言えることだろうが、文学作品の場合は特に)読み手の感情移入が過ぎると、人間心理の力学として聞き手の方は白ける。このあたりの塩梅がむつかしい。むつかしい気がする。」とある。同時に、小説の書き手としても、「読者を九合目あたりまで連れていけば、それでよろしい。あとは読者が自力で頂点を極め、みずからの感動を創って味わってほしいのである。」としていて、「読者が自由に鑑賞する余地」が非常に大切だと述べている。

小説の文章創造と朗読の音声表現において近似した要素があり、いずれも100%を敢えて意図的に目指さない「塩梅」が重要だという。表現には「余白」が必要で、そこに読み手や聴き手を尊重する作品としての「作法」があるというわけである。「すばらしいでしょ、悲しいでしょ、恐ろしいでしょ」と「はしゃぐのは、いけない。」というのだ。表現者として、この余裕を意図せず展開できるようになれば、自ずと作品は読み手や聴き手の心の中で完結するということだ。

「朗読事始め」の項は阿刀田氏ご自身が、かなり力を入れているのが感じられる。後半には「公演」における「テキスト選び」のポイントなども列記されていて興味深い。文章の結びに近いところに、「私の知る限り読書界には、“朗読概論”とも言うべき良書が見当たらない。」とある。「朗読をやろうとしたとき、どこから入り、なにを考え、なにを習い、なにを留意したらよいか、きちんと説くものがない。」という感情で、「私はもやもやしている。」と阿刀田氏はいう。

「朗読21の会」の公演は、演出家の鴨下信一氏が行っており、その演出の妙には大変魅力的なものがあった。阿刀田氏は、鴨下氏が“朗読概論”を執筆すればいいと語っている。

「朗読」には様々な要素と可能性が秘められており、一筋縄ではいかない。演出家・小説家・表現者・研究者・教育関係者等々、様々な分野からそのあり方を分析し、表現することで作品理解に到達するという、「文学」を味わう極上の悦びが普及するよう努めなければならないだろう。

阿刀田氏の「朗読」に関する発言・活動には今後も深く注視していきたい。

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