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楼上の変革―「勇気」と「低徊」

2012-04-06
新年度を迎えて6日目となる。新たな職場・部署や学校などにおいて、心を刷新してスタートした方々も多いことだろう。とりわけ新入社員や新入生であれば、入社式や入学式という通過儀礼を経て、希望に胸を高鳴らせる日々を送っているはずだ。何事も新たな環境に身を置くことで、心は躍動し始めるものである。

だが、「新たな環境」は簡単に手に入るものではない現実もある。そうした時に、心を変革するにはどうしたらよいか?小欄のタイトルに掲げたように、「虚往」の境地に至れば何らかの「実帰」が得られると考えたいが、それとて「虚」に「往(く)」こと自体が、そう簡単なことではない。物理的・精神的な“ブラックボックス”が存在すれば、そこで変革の契機に巡り合うこともある。

多くの方が高校1年生の時に学習したであろう芥川龍之介『羅生門』。殆どの出版社の教科書が教材として採録しているので、そのあらすじはご存じであろう。「下人が雨やみを待っていた」いや、「雨にふりこめられた下人が、行き所がなくて、途方にくれていた」のであるが、荒廃した羅生門の楼上において、下人が老婆の言動に接すると「ある勇気」が生まれる。その「勇気」をもって即座に行動を起こし、楼上から降りてきたときには「途方にくれていた」ことが嘘のように刷新されているという物語である。「下人の行方は、誰も知らない。」と、その後の「下人」の行動を読者の想像に委託し、このあまりにも有名な短編小説は幕を閉じる。小説が書かれた当初は、この最後の一文が更に具体的であったというのもよく知られている。

「どうにもならないことを、どうにかするためには、手段を選んでいる遑はない。」という「下人」の考えは、「何度も同じ道を低徊した揚句に、やっとこの局所へと逢着した。」と『羅生門』にはある。生きる為には「盗人になるよりほかに仕方がない」ということを「積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。」。いわば葛藤の渦の中でその心は停滞していたということである。小説では背景や時代相としても、生きる為に「手段を選ばない」ことが「盗人」になる「勇気」として描かれているが、僕たちの生活の中にも、心の「低徊」を繰り返し「局所へと逢着」するような精神的作用が求められることもある。「悪」を肯定するという作業ではなく、倫理観の如何は人それぞれであるとしても、前に向かって踏み出そうとする行動を促す「勇気」のことである。そんな際に、自らが“心を変革する装置”として、『羅生門』の「楼上」のような場所と機会が求められる場合があると思うのである。

自分が持ち得る感覚に対して、「反感」や「憎悪」を抱くものに接してみること。異分野・異世界の感覚を肌で感じてみること。その越境した淵に立たされることで、その時の、その時までの自分が偶有性の中で持ち得ていた自覚なき背面が、炙り出されてくる。「善悪いずれに片づけてよいか」という二分法では計れない葛藤の「局所」に身を置くことでしか見えて来ないものがあるのだ。

「下人」は楼上の「老婆」のことばを承けて、その“論理”そのものに従って自らが「勇気」を得て行動に出る。楼上から降りた「下人」の心は確かに変革した。だがしかし、「下人の行方は、だれも知らない。」のである。この短編小説をどのように読むか、また小説後の「下人」がどんな道を歩むか、それは読者である僕たちの想像に委ねられている。小説内で「勇気」の質が変革し、ある“結果”を獲得する下人ではあるが、その本質が小説内の“行動”で全て計れるかといえばそうではない。ならば、「何度も同じ道を低徊」する過程にも人間として意義あるものが内在し、その「低徊」にこそ人間的な歩みが見えるのではないだろうか。


もし“今”が「低徊」であるならば、
こんな「楼上」を実体験する「勇気」が、
僕たちに必要なのかもしれない。
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