fc2ブログ

強制・監視の果てにあるもの

2012-03-14
小中高を通した学校時代の授業で「教科書を読まされる」ことは、殆どの方が経験しているはずである。国語の授業であれば、その教材を扱う最初の時間に、一人ずつ指名されて教材文を「音読」していく活動が行われるのが常だ。〈教室〉にいる全員が同じ時空で、教材の内容を共有するために、一度は公に「声に出して」教材文が「読まされる」のである。その時のことを思い出して欲しい。果たしてその学習活動は、有意義であったかと今一度問い直してみよう。主観的な推測が許されるならば、その「音読」は退屈極まりないものだと多くの方が感じているのではないだろうか。

「国語」が好きか嫌いかという問いに対して、「嫌いだった」と答える方を多くお見受けする。だが、深くその内実を聞いてみると、「国語」の教材である「文学」そのものが嫌いだったかというと、そうでもない場合が多々あるようだ。「嫌いだった」対象は、「国語」の“授業方法”そのものである。文法事項・漢字・百人一首などを“強制”的に暗記すること。この小説の主題は、「・・・・・」であると指導者が決めた結論のみに収束していく茶番的な読み方。評価を人質にして、その読み方を「強制」的に根拠にした試験の実施。極めて「道徳的教訓」を旨とすることが暗黙の「監視」のもとで求められる作文。こうした「強制・監視」によって、学習者は本来面白いはずの「国語」の内容までを嫌悪するようになる。大人になって小説を自由に読むことを知った方は、「文学」がこれ程に豊かであったことを悟るはずである。

教育現場でまた「強制・監視」が行われたというニュースを耳にした。大阪市の「国歌起立条例」に基づいて行われた高校の卒業式で、校長・教頭が教員の「口が動いているか」をチェックしたという。ここでお断りしておくが、「国旗・国歌」の前提となる問題に対して、本日の小欄は敢えて何も言及しない。その問題は単純に言及できるほどのものではないからである。既に施行されている条例によって、何が起こっているのかということに焦点化して述べておきたいと思う。

小欄が今言いたいことは明快である。また教育現場で、しかも教員間で「強制・監視」が実施されたことへの危惧である。「国歌」を歌うことが「強制」されて、それを「声に出す」ことが「監視」されたという事実である。「声に出す」ことを「強制・監視」するというのはやや正確でないかもしれない。「口が動いていない」のをチェックしたというのだから、単純に「口パク」という逃げ道がある。たぶん生徒であるならば、間違いなくその「方法」を採る者が現れるだろう。「強制・監視」は、その内容をむしろ空疎なものに貶める方向に導く可能性があるのだ。

前述したように、「国語」の授業で「声に出して読む」ことが「強制・監視」のもとで行われてきたことは、教材そのものの豊かさを貶めてしまった。学習者は、その〈教室〉という拘束下で、仕方なくこれ以上ないぐらいに頽廃的に教材文を「声に出して」きたのである。仮に朗々と感情を込めて役者のように読んだとするならば、周囲の“空気”がその者を排除するという、逆方向の「強制・監視」ベクトルにも向き合いながらである。〈教室〉にいる者たちは、その二方向からの「抑圧」均衡を最優先に考えるがために、本来は一義的な教材を興味深く読み味わうことを斬り捨てて来たのである。その結果、豊かな人生を支える筈の「文学」を空疎化し嫌悪する風潮が蔓延し、教養と知性を軽視する社会環境を、「教育」が作り上げてしまったのである。「自国の文化と伝統」を学ぶ意欲は、「強制・監視」下ではなく、自由に豊かに「文学」を読むことで醸成されるのである。


卒業式というのは、巣立つ者にとって数年間の学びを自覚し感謝する時である。
卒業式というのは、教え導く者にとって自立した羽ばたきを確かめる時である。

その場で、教員が「強制」側と「監視」される側に分断し、
「口の動き」を牽制し合うという光景が、
どんなにか巣立ちの尊厳を踏みにじっているか。

爾来の「強制」しない状況を、式典への冒涜だというならば、
主役を無視した「監視」行為を、権威主義的な式典への冒涜だとはいえないのだろうか。

僕たちは、「教育」というものを熟慮すべき危機の淵に立たされている。
関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/865-acdb6c00

<< topページへこのページの先頭へ >>