fc2ブログ

琢句という感覚

2012-03-13
「手書きという言葉はワープロ、パソコン時代にあって陰ながら誕生したものらしい。」ということを阿刀田高氏『日本語を書く作法・読む作法』(角川文庫)に教わった。確かに、文字・文章を手で書くのが通常であるという社会に「手書き」と特定する言葉は不要だ。この20年ぐらいの間に、作家など文章のプロも一般の人々においても、「ペン」から「キーボード」へと文字を書く道具が変遷した。僕たちは人類の文明史上において革命的な出来事を経験したといってよい。

阿刀田氏は同書で、「手で書く」場合は、「頭の中で考え抜いてから書くわけです。」と述べている。それに比して、ワープロ・パソコンの場合は、「とりあえず文字に打ち出し」て「書いてから考える」ものだという。その上で、「自分がいったん書いた文章は削りにくいもの。」とも述べている。「手書き」での表現こそ、精査され琢句の果てに紡ぎ出された「思考」を伴っているというのである。

僕の場合、大学学部の卒業論文では「手書き必須」という規定があった。その清書段階で、ペン蛸の痛みに耐えながら書き抜いた辛さが思い出される。通常、清書は1時間に400字詰め原稿用紙4枚程度。15分で1枚ぐらいのペースが健全な文字を刻む範囲内だ。それを無謀にも250枚という“下書き”を書いてしまった自分を責めながら、必死に提出期限まで夜を徹して書き続けたのが今では懐かしい思い出である。

パソコンでの文章作成であると、「削りたくない」上に清書の苦痛もないので、必然的に冗長になる危険性を孕むという趣旨のことを阿刀田氏は指摘している。確かに注意をしないと、“本気”で「琢句」という意識で文章を綴っていない場合がある。「琢」とはもともと、「つちやのみでとんとんとこまめに打ってかどをとり玉を美しくする」(漢字源・学研)というのが原義である。「石川啄木」の「啄」が「とんとんとくちばしでつつく」という原義であるのと“漢字家族”である。まさにペンで「とんとん」と「こまめに打って」、文章を磨くという感性である。

ということで、小欄のまさにこの文章も「キーボード」により入力している。
それだけに冗長に陥ってはいないかと、今一度点検してみる必要がありそうだ。

考えてみれば「キーボード」でも、「とんとん」と文字を刻む感覚はある。
その一打一打に「琢句」(字句をみがく)という意識を、せめて持ちたいものである。
関連記事
スポンサーサイト



tag :
コメント:












管理者にだけ表示を許可する
トラックバック:
トラックバック URL:

http://inspire2011.blog.fc2.com/tb.php/864-c42a423b

<< topページへこのページの先頭へ >>