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東京大学秋入学全面移行案を考える

2012-01-19
 東京大学のワーキンググループが、従来の4月入学を全廃し、秋入学(9月)への全面移行を求める素案を中間報告としてまとめたと報じられた。既に東大を含めて他大学においても、一部で秋入学が実施されてはいるが、「全面移行」を打ち出した点は大きなニュースといってよい。海外からの留学生が入学しやすいのと同時に、日本人学生が海外留学をする際にも、期間的適合性が高くなると評価できる。世界の大学では70%が秋入学を実施している現状である。また、春学期(4月~9月)と秋学期(10月~3月)という2期生であるにも関わらず、春学期終了直前に日本的暦によるやや長い夏休みが入り、事実上学期が分断されていることを解消する為にも有効である。海外の大学では6月~8月の約3か月間に集中して長期休暇となるため、研究・インターシップ・ボランティア・国際交流などに集中して学生が取り組めるという利点がある。

世間が懸念している材料がないわけでもない。高等学校や新卒一括採用就職が現状の期間のままであると、入学や就職までに半年の“余白”が生じる。これを「ギャツプターム」と呼んでいるようだ。当の高等学校側や企業側は、こんな点に不安を募らせているという報道もある。だがしかし、ここで考えるべきは、果たしてそれが「不安」とだけ捉えていいのだろうかということである。就職状況が厳しい昨今、企業の新卒一括採用制度に限界があると指摘する論者も多い。また、高等学校の“予備校化”は表面的な印象以上に、教育を歪曲しているともいえる。高等学校における大学合格実績“水増し”表示の問題などが後を絶たず、週刊誌が掲載する「大学合格者数」にこだわり、合格数を増やすことのみに高等学校の教育的情熱が注がれてしまうという、“世界的に異常な教育環境”が平然と、いや自慢げに行われている現状を省みる必要性を感じるのである。東大の英断は、社会を動かす力になるという好影響を、むしろ評価すべきである。

企業への新卒一括採用と、その延長上の終身雇用が“幻想”であることが明らかになって来た今、人材採用のあり方も多様化すべきだ。また職業選択をする学生側も、柔軟な選択を視野に入れることができるように、社会的“旧弊”を打破すべきである。既に優秀な一部の人材は、そこを突破し世界的な舞台で活躍しているはずである。就職という人生選択の幅を幾重にも拡大することが、現状の日本社会を変革する大きな力になるはずである。

また高等学校においては、預かった生徒を大学に入れるのではなく、“大人にする”教育が求められるのではないだろうか。大学合格実績を競うあまり、ほぼ高校3年次の授業は「入試対策」というのが多くの進学校の現状である。(中には高校2年次の夏休み頃からというケースも見られ、ほぼ高校授業の半分は入試対策と化す)逆に言えば、授業内容が「入試の解き方」に制約を受けるということである。教養的知識を身に付け、思考を耕し、社会的問題を自身の問題意識の中に置き、他者と議論し、自己の意見を的確に表現できる力を、残念ながら日本の大学入試では要求していない。断片的知識を暗記し、無駄なことは思考せず、社会的問題から隔絶し、自己の中に閉じ籠り、個別な意見など表現しないで、ひたすら「入試解法セオリー」などと呼称する胡散臭い学習法に傾倒する方が、現状の入試対策には有効なのである。“大人”というものの定義にも様々あろうが、どちらの教育が“大人”へと育てるかは、火を見るより明らかだ。だが、「入試対策」をしない高校は、“面倒見が良くない”と批判されるのが落ちである。こうした教育環境を変える起点に、東大の提案があると受け止めたい。

一部のTV報道で高校関係者のインタビューで既に目にしたが、高校卒業後の「ギャップターム」の過ごし方を高等学校が責任を持って「面倒を見る」という発想が涌き出てきそうである。だが、日本人はなぜ自国の18歳をどれだけ“子供”扱いすれば気が済むのだろうかと呆れ返ってしまう。卒業した子供たちを“自力で羽ばたかせる”のが教育の真意ではないのだろうか。海外で18歳を見ると常に感じるのは、日本人18歳の際立った“幼さ”である。小中高校という12年間に学校も家庭も子供を擁護し、最大限の面倒を見て、挙句の果てに大学に進学しても親の精神的管理下にある場合が少なくない。子供たちは、いつ自立すればよいのだろうか?日本の国際競争力の低下は、単に海外へと留学する学生の激減という現象を捉えても、こうした社会的な教育環境構築の誤りに起因しているのである。

4月~8月までの期間を、学生自らが思考し・決断し・実行する内容で、自らの人生の第一歩を踏み出させることを容認する勇気がない限り、日本の将来は危機的である。高校時代にできなかったボランティアに従事するのもよし。卒業旅行などという形式的で親依存による豪奢なものではなく、様々な場所へ出向いて多彩な洗礼を受けるのもよし。バイトを含めた職業体験をして、社会を実感するのもよし。母校が好きならば、後輩の指導に力を尽くしてもよし。もちろん、大学入試対策では取り組めなかった、自分の価値観を変革する読書に勤しめるという最大の利点があることを忘れてはならない。海外の大学生に比べて、日本の大学生の読書量は極端に少ないという指摘も多々ある。大学入学前の半年間で、“課題”などという強制ではなく、自らの意志で自らの“生”を問い直すような価値ある本を発見する為にも、最低でも100冊程度の読書があって然りである。(現状では大学4年間に100冊程度といわれているが、授業課題的な強制を除くと果たしてこの100冊という数字自体も限りなく怪しい。)単に数量的な問題ではないが、米国の大学生の場合は500冊とも、名門大学の場合1000冊とも言われる。これは大学院レベルに至っても日米差が甚だしいのを実感する。

かくして東大の英断は、様々な社会的変革の第一歩であると認識したい。
だが、この社会の閉塞感が示すように、“変えたくない病”というモグラが世間のあちらこちらから顔を覘かせる。
明治時代の学制では9月入学が相当な期間に及び実施されていた。
夏目漱石の名作『三四郎』は9月入学である。
日本は元来、“桜の中を入学だ”というのは単なる浅知恵に過ぎない。


東日本大震災で、その後の議論が全く消滅してしまったが、昨年の大学入試における「携帯カンニング」を、今一度考え直してみよう。あのような手段で「カンニング」が可能な入試問題のあり方自体を問い直すべきだと切に思う。

大学入試変革は、高校の教育内容を正常化する。
以下、それは中学校・小学校へと連なる。
すぐにでも本気で改革を断行しない限り、日本の将来はない。
東日本大震災以後の様々な状況が、それを炙り出している。



問題冊子を同時間内に配布するか否かなどと、些末な入試業務を反省している暇はない。
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