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擬似的格闘の意義

2012-01-12
 NHK「クローズアップ現代」で「時代劇危機一髪・日本文化を守れるか」を視た。先頃、小欄にも書いたように、「水戸黄門」が惜しまれてシリーズ40年以上の幕を下ろした。この怪物的とも言える長寿番組の終焉は、同時に時代劇全体の衰退を象徴的に示している。実際にレギュラー番組枠で時代劇の放映が決定しているのは僅かに1つであると伝えられていた。時代劇そのものが衰退すると、その撮影に使用している大小道具や装束、時代考証に基づく所作の保存などの“文化”が失われていくことも連動する。殺陣を行うスタントマンやその技自体の継承が困難になって行ってしまうというのだ。大正・明治生まれの方が多く活躍した昭和の時代に、その生活的空気感を知っている方々による文化の継承が、時代劇という擬似的な空間で行われてきたことは貴重であろう。大正・明治の空気感とは、まさに幕末からの連接が濃厚であったはずである。今、それが途切れようとしているのだ。

幼少の頃、無性に“剣”の玩具が欲しかったのを思い出す。街の駄菓子屋などに行くと、軒先に“大小腰の物セット”が吊り下げられて販売されていた。それを憧れるように見上げて、祖父母などとともに駄菓子屋に行った際を好機と見るや、すかさずねだって買ってもらったものだ。家に持ち帰ると、さっそく腰に下げるか(武士)背負うか(忍者)して、鞘から抜いて振り回した。必然的にまだ当時は家屋に多かった襖や障子を破る結果となる。それを両親に咎められるので、仕方なく外へと持ち出す。近所の路地や公園で同年代の友人たちとチャンバラが始まる。それでも、プラスチック製の刀で激しく斬り返しを行うと、次第に根元から曲がってしまったりするので、比較的、物品を大切にしたいという願いが強い小生は、極力、“腰の物”を抜くのを避けたりもしていた。それは、時代劇を見ていると、本当に強い英雄的な存在は、簡単に刀を抜かないことにも気付いていたからである。弱者こそすぐさま刀に手を掛け、英雄はそれを素手でかわす。そんな「美学」に子供ながら気付いていたとは、今にして驚きでもある。要は、近所の路地でチャンバラをするということは、子供たちが擬似的格闘をすることにもなり、それは本当の喧嘩ではなく(勿論、本気になってしまう場合もあったが)、自らの中にある闘争的本能を燃やす場として機能していたのではないかと思うのである。

このような思い出を辿ると、家族で時代劇を半強制的に視ていたことで、英雄的美学・命の尊さ・人情の厚さなどを自然に学んでいたのではないかと思う。刀の鞘への納め方はともかく、和室での座り方、挨拶などの所作を始めとして、相手に対してどのような態度で意志表示をするかというような感覚を、自然と学んでいたようだ。まさに無形文化が時代劇によって継承されていたといえるのだ。
特に時代劇の最大の見せ場は終盤の殺陣である。幼少の頃にその場面になって、ふと茶の間にいる父の姿に目をやると、身体が主人公に合せて左右に動いていたのを思い出す。ほぼ、時代劇主人公に同化して擬似的格闘に臨み、勧善懲悪を実行するという楽しみ方を父はしていたのであろう。現実社会では為し得ない“格闘”を、時代劇空間で行い、世の理不尽や不正義に対する自分の気持ちを解放していたようにさえ受け止められる。時代劇に限らず、アクション映画の存在感というのは、そんな擬似的格闘の体験にあるのではないかと改めて認識する昨今である。


「クローズアップ現代」を視終ってから、スポーツジムへ。
この日に参加したスタジオエクササイズは、“ボディコンバット”。ボクシング・空手・K1などの動きを取り入れた60分の有酸素トレーニングだ。昨年までは、このエクササイズには積極的に参加していなかったが、今年はこれを皮切りに週に1回は参加してみようと思う。動物としての人間の本能に、「闘争心」が宿っているのなら、それをどこかで解放する必要性もあるのではないかと思うゆえである。


擬似的格闘体験。
それは、たぶんゲームの世界でも可能であろう。
ただ、一定の範疇で再現される時代劇のリアリティーに及ぶものではないのではないか。
また、何より自分の身体性を最大限に機能させるエクササイズで実行することとは、天と地ほどに相違があるといわなければならないであろう。


せめて映画の名作として、時代劇が今一度活性化することを切に願うのである。
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