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スポーツ生中継の使命とは?

2012-01-04
 正月三が日の終了を実感するのは、箱根駅伝がゴールを迎えたときである。“ゴール迎えた”というのは、全参加大学の最終ランナーが、ゴール地点に到達した時である。(もちろん不測の事態による棄権は除いて)その後、交通規制で封鎖されていた大手町近辺の道路が通常の姿に戻り、沿道を埋め尽くしていた群衆の姿がなくなった時、初めて箱根駅伝は終わりを告げるのである。かつて、母校の活躍に入れ込んでいた頃、よくこの大手町ゴール周辺に声援を送りに出向いた。母校の競走部(陸上部のこと)の監督・選手を大学関係者や応援団が囲み健闘を讃えたり、悔しさを言葉にしたり、そんなエンジ色の人の輪を見守る場面まで現場に残っていたこともあった。それは現場でゴールを眼の前で見た者にだけ与えられた特権のようで、単なる勝敗よりも遥かに見る価値があると思った。

その箱根駅伝のテレビ中継視聴率が関東地方で、往路27.9%・復路28.5%であったという。正月スポーツ中継では群を抜く高さである。かくも多くの人々が、お茶の間で大学生が純粋に走る姿に心動かし、何らかの共感を持って捉えようとしている。それはTwitterなどへの投稿を見れば一目瞭然である。確かに、母校の襷を繋げようと奮闘する各選手の姿に、希望や勇気を感じるのは事実であろう。ただ、それが実際にどれほど過酷なものであり、どれほど残酷なものであるのかという視点を実感として持ち得ていないと、いささか感情的な受け止め方に終始し、何らかの「物語」を見ているような幻想に陥りかねないのではないだろうか。

この20%台後半の視聴率というのは、スポーツ中継としては“成功”していると言える数字であろう。お茶の間にいる率が高い日本のお正月という要素も後押ししている。だがしかし、この視聴者たちのどれほどが、その中継に違和感を覚えているのかと考えてしまうのである。とりわけ、ゴールが近付くにつれて優勝校となるだろう先頭を走るランナーの、それまでの選手としての経緯や家族のことまで、あるいは当該の大学チームが前年度の屈辱に奮起して、この日を迎えたという「雪辱物語」の映像などを生中継に混在させて、あたかも試合後に制作されたドキュメンタリーであるかのように放映されている。そうした用意が周到に作為されているということは、まさに“予定調和”的に優勝校を決め込んだ放送制作ではないかと思ってしまうのだ。もちろん、学連選抜を含めて全ての大学の「優勝物語」を制作しているのなら見上げたものだ。その番組制作の努力には敬意を表しなければならない。たとえそうであったとしても、あの大手町で箱根駅伝を実感したことのある一人としては、スポーツ“生”中継としての違和感は拭えないのである。

更に言えば、純粋に淡々と走るランナーの姿を音声で伝えるアナウンサーの絶叫には、息苦しささえ感じてしまう。選手たちはもちろん、各自各様の思いを込めてこの晴れ舞台に臨んでいるであろう。そこには、自分でも予想以上の走りができた者もいれば、その日の体調如何により、苦戦を強いられる選手もいる筈だ。どんな市民大会であっても、長距離走を1回でも経験したことがあれば、「走ってみないとわからない自分」の存在という点には自覚的であるはずである。その上に立って、市民ランナーレベルでは全く想像もつかない心身両面での過酷さを背負って、彼らはこの日に臨んでいるのだろう。その純粋な姿を音声で伝える際に、余計な感情の起伏は不要だと感じるのは小生の偏見であろうか。絶叫の押し売りは、映像を受け止めた視聴者が心の中で叫ぶのとは、「解釈の強要」という意味において、大きな隔たりがあると言わざるを得ない。


以前にあるアナウンサーの「話し方講座」に参加したことがある。参加者の多くが中学高校の教員であった。小生は後方の席でやや傍観者的に見守っていたのだが、最前列にいた女性教員が、アナウンサーに小説の台詞を読むように指名された。その時、学校現場ならばかなり上手と思えるような朗読を彼女はすんなり行った。しかし、講師であるアナウンサーは、「感情を入れないで」「平板に」を何度も何度も繰り返して彼女に対して要求し、「まだ(読み方に起伏があって)あなたの勝手な解釈が出てしまっている。」とその教員を戒めたことが思い出される。小中高大学を問わず、〈教室〉において我々教員も、無意識に小説の解釈を強要してしまっていることがあるのかということに気付いた貴重な体験であった。


箱根駅伝に限らないが、昨今、スポーツ中継のバラエティー化やドラマ仕立てに対して、甚だ違和感を覚える。野球中継などでは、副音声で「球場音のみ」という選択ができる場合もある。あるいはMLB中継であれば、現地の「英語中継」という選択もできる。小生は、迷わず第二言語である「英語」を選択し、BaseBallを楽しむようにしている。こうした日本のスポーツ中継のあり方が特に野球の場合、球場でもバラエティーの延長のように、野球そのものの迫真で壮絶なプレーに目を凝らすことよりも、鳴り物を掲げた応援団の一員となり、声を揃えて乱舞することを観戦の主眼とするファンが多いことに関連しているような気がしないでもない。

価値観が多様化しているからこそ、こうした中継や観戦のあり方も一つの方法ではあるだろう。

だがしかし、スポーツを観るということは、自分たちでは予想もできない高度なレベルの運動を、アスリート達がどれほどの心・技・体を駆使して展開し得ているのかを、実感を持って知ることではないだろうか。

スポーツ中継の使命は、その“現場”を偏向なく伝えることにあるはずだ。

そこに過剰な作為があれば、それは日本スポーツのあり方までも左右する大きな問題でもあると危惧するのである。

ならば、極力、現場でスポーツを観ようという結論に至るしかないのであるが。
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