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研究者であるということ

2011-10-18
 研究をするとはいったいどういうことなのだろうか?科学の進歩の為。社会貢献の為。はてまた自分の好奇心を満たす為。人それぞれ様々な目的を持っているはずであるのと同時に、その研究分野によっても方向性や支援体制に大きな違いがある。映画などで、社会に対して閉鎖的な研究者が発明してはいけないものを研究開発し、それが怪物化し人間社会と対決するような図式というのは、よくあるパターンである。

 朝日新聞に連載が始まった「プロメテウスの罠―研究者の辞表―」では、労働安全衛生総合研究所に勤務していた放射線衛生学の研究者である木村真三氏における、3.11以後の動向が語られている。12日に福島第一原発の爆発を受けて、すぐに現地入りの準備を始め、最も信頼する小出裕章氏ら4名に「檄文」のメールを出した。自らがサンプリングをしたものを「皆で分析してくれ」という内容だったという。これらは、自らの専門研究分野において、時間との勝負であることを自覚していた木村氏の瞬発的かつ使命感に根差した行動であったはずである。だが所属する研究所は、厚生省所管の独立行政法人。木村氏の携帯に「本省並びに研究所の指示に従ってください。くれぐれも勝手な行動はしないようお願いします。」という文面のメールが研究所から届いたという。

 木村氏が、その後すぐに出した結論は、研究所を辞めることだった。自らの専門分野の研究のあり方に基づいてとった行動を「勝手な行動」と否定されるのは、研究者としての使命感が許さなかったのであろう。木村氏が続けた測定の様子は、後にNHK「ETV特集」で放映される。その番組を小生も視たが、TV等の報道が伝えている事実とは違った“現実”が福島に広がっていたことを知った。あの放映は6月5日(日)。確かTwitterなどでも大きな反響を呼んでいたので、今でも鮮烈な印象が残っている。

 ということは、表向きの公表を政府・監督官庁・独立行政法人などが操作しており、研究者が自らの信念でとった調査による結果は、一部でしか公表されないという矛盾が生じていることになる。調査や研究成果のあり方は、何も全てが公正に扱われている訳ではないことが即座に理解できる一例である。放射線衛生学の専門研究者としての誇りをもった行動が、むしろ“怪物”を産み出すかのように忌避されてしまうという、社会構造があることを知るのである。

 
 時として、研究というものは現場で敬遠されることが多々ある。“研究”に没頭していると、現場を軽視して実践的な行動をとっていないと見なされたりする。専門の研究者ではなくとも、どんな職業であろうとも研究心をもって取り組むことは尊いはずである。だがしかし、現場の反応がたいそう冷徹になる場合がある。現場の流れに従順に合せてさえいた方が、組織としては無難であると見なされる。研究を重ねて、斬新で組織内部として極端な意見を出すことが忌避される原因となる。ゆえに現実に即した公正な考え方であっても、組織の“空気”に逆らうものであれば、“怪物”と見なされて排斥されるのである。そんな現実を考えると、果たして研究とは何なのかと思ってしまう。

 この日、改めて3月25日にUSTREAMで放映された「敢えて最悪のシナリオとその対処法を考える」という特別番組を視聴した。そこで宮台真司氏が述べていたこと。「アカデミズムの中で知識人が自由を発揮できない社会システム」の支配的な社会が自ずと構築されてしまい「大丈夫か、大丈夫でないか、というどちらかしか考えない愚民的な思考」に対して、「不安を煽る」からという理由で「大丈夫」と言い続ける政府・官僚・報道の構造があるという解説に一致していると痛感するのである。



研究を行っている以上、どこかで社会貢献とか、豊かな人間性の構築などという公正かつ正統な方向性を目指そうとする気持ちが宿るはずである。だがしかし、組織の“御都合”で、それが否定される場面が多いことを十分に理解しておく必要があるだろう。



 組織を辞めても自らの研究分野における基本を優先した木村真三氏。


 同じく“研究”をしている人間として心より敬意を表するとともに、今後の活動を見守りたいと思う。数年後に、彼の行動こそが日本にとって重要だったと評価されるような社会を目指すためにも。

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