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ひとつの「しがらみ」

2009-12-04
3日(木)自分の意志とは無関係に、やらねばならない役柄があり、それが「しがらみ」となったりすることがある。自宅マンションの管理理事会なども、そうした部類に属するのかもしれないが、自宅の将来的な管理や、日常の保全を考えることは重要なので、「意志」をもって役柄に付いている。その上、派遣されている管理のおじさんの人柄が最高によく、少しでも協力したい気持ちにさせるということもある。

 しかし、職場で仕方なくなってしまった「役柄」は、まさに虚構の役柄だ。「意志」もなく、自己が学ぶという利害関係も感じられず、その上、関連する外部組織の人々に、まったく好感が持てない。この日は、こうした組織の忘年会があった。数時間の間、道化師、はてまたサーカスの動物のように、その空間で酒と談笑に応じた。せめて、個々に自分を評価してくれる人の存在が、些少でもあるのが救いだった。ましてや、過去の行状が倫理的に許せないような男が、調子づいて他の女に接近している状態を見ると、居ても立ってもいられない。帰りがけに、その男が、こちらを「役柄」で呼び止めて2次会に誘った。もう道化師でいられる制限時間はとっくに切れており、そのまま電車で帰宅。

 数日来、職場での申請が悉く好機に恵まれないでいたのは、この「しがらみ」を越えてからという、時間的な幅が必要だったのか。今日も、ドアを開けたら申請すべき相手の部屋は電気が消えて、中には人がいなかった。「しがらみ」ということばは、菅原道真が和歌にも詠んでいる。

  流れゆく我は水屑となり果てぬ君しがらみとなりて留めよ

 ここでいう「君」とは、道真に信頼が厚かった宇多法皇。太宰府に左遷される際に、道真が最後の訴えをしたという和歌である。しがらみとは、漢字で「柵」と書く。「川の中に杭を並べて打ち、竹などを結びつけて物が水とともに流れるのを防ぐ道具」(新潮古典集成より)この道真の場合、流れゆく身である自分を何とか留めてほしいと願う際の、物質的な象徴として使われている。

 人生は、留まりたい時に「しがらみ」がなく、すんなり離脱したい折には「しがらみ」があるものだ。ただひとつの「しがらみ」は無事、穏便に終了した。すでにこの流れを止めるものは何もない。自らが希望の大海に船出するだけである。
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