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欲望のコントロール

2011-10-04
 Twitterで次のような投稿を目にした。

ついに北半球も。オゾン層破壊は人間の欲望が創りだした象徴的な出来事。フロンが悪いのではなく、フロンの使い方を誤った人類の過剰な欲望の責任。欲望のコントロールが急務ですね。=>北極にもオゾンホール

 
 「同意」というRTをすると次のようなリプライをいただいた。


過剰な欲望をどうコントロールするのか、どう息抜きさせるのか、個人により大きな差があるので難しい問題です。今の学校教育では学べないもの。昔は四書五経やそれに付随するもので学んでいたのですが・・・。



確かに「欲望のコントロール」は今の学校教育では学べない。抑々、“コントロール”とは抑え込むだけではなく、適度な発散が必要であるはずだ。欲望を内部に溜め込むだけではなく、外部に少しずつ表出する機会がなければコントロールは覚束ない。自分の意見は言わずに抑制する。教室の空気を読んで発言する。自分の感性と違っても“いいね”といって他人に同調する。なぜかといえば仲間外れが怖いからである。全てとは言わないが多くの学校空間は、いまこのような過剰な「抑制」が渦巻いている。一見、「欲望のコントロール」に適しているかのように見えるが、むしろ個人の中で欲望が肥大する自己中心主義を大量生産する結果となっているように見える。


したがって授業内で「意見」を言うことにもためらいが生まれる。自己主張をしたら学級内でどのように見られるかを気にするからである。端的な例を挙げれば、帰国子女で英語の発音がネイティブ並である子供が、周囲の目を気にして意図的に日本人訛りの発音でリーディングする。教員以上である英語発音を、教室空間の空気が受け入れないのである。だがしかし、果たしてこの教室にいる教員を含めた人々にとって、本当にこれは利益になっているのだろうか。甚だ内向きな日本人的閉塞感が、教室を支配していることになる。

「国語」の時間に音読・朗読をするときも同様である。情感を込めた個性的な読み方をすれば、周囲にどう思われるかを気にする。ゆえに、いかにも読むことに対して忌避があるかのように怠惰な姿勢を前面に出し、これ以上はないという“棒読み”が通例となる。これでは読む側も聴く側も、文学作品を味わうなどというレベルには到底ならない。無益な思考のない時間が延々と続くことになる。教室空間にいる者にとって(教員を含め)これは苦痛以外の何物でもない。

やや話は逸れたが、こうした学習活動が日常化した教室空間では、「学びたい」「知りたい」という好奇心旺盛な欲望は育たない。学習自体が短絡的な暗記そのものであるという誤解が横行し、思考を伴わない自らを苦痛にする学習しか存在しない。正統なる「欲望」はなく、鬱屈し頽廃した「欲望」のみが個人の内部で育つ。それゆえに、単線的に“わかりやすく”を求めて、一番実効的な“受験に役立つ”小手先技術が要求される。教員側も「学校評価=週刊誌ランキング的な受験実績数値」と捉えて、受験対策を学習の中心に据える。ゆえに入試に出ないものは学習の対象にはならなくなる。大学生の教養低下は、必然的な流れと言わざるを得ない。


本来、教育現場とは、「わからない」だが「知りたい」という知的欲望に火をつける機会を提供する場ではないのだろうか。そこで様々な矛盾や葛藤と格闘しながら、「わかろう」とする過程が存在し、お互いが意見を出し批評し合い、だが簡単には答えが出ないという問答を繰り返してこそ、各人の思考が攪拌されていくのではないだろうか。その場に居合わせた級友がいなければ成立しえない、唯一無二の思考ノートが成立するような学び合いの場が必要なのではないかと思うのである。思考の道筋を教員側が示してしまうようなプリントによる学習は、こうした芽を摘み取ることになるはずだ。


やや取り留めもなく書き殴ってしまった。


便利で効率的であることのみを良しとする社会が過去のものとなった今、教育現場での意識改革が急務であると痛感する。

「フロンの使い方を誤った人類の過剰な欲望の責任」は、紫外線量の増大などという具体的な被害として我々に降りかかってくる。


「欲望」とは何か?そんなことを思考する場が求められる。

 昨日、小欄に書いたことに引き続き、「文学教育」にはそんな使命があることも忘れてはならないはずだ。
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