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国語教育を阻むもの

2011-10-03
 ひつじ書房『可能性としてのリテラシー教育』刊行記念シンポジウムに参加した。高校現場の教員・古典研究者(中高教員経験のある方)・物理研究者4名の基調報告をもとに、リテラシー教育のあり方、古典教育の現況、文学教育における問題点、理系科目との共通点・相違点等が活発に議論された。そんな中から、改めて日本の国語教育がどうあるべきかという様々な視点が得られて大変有意義であった。

 そんな報告や議論の中で気になったのは、中学・高校の教育現場で行われている教育のあり方が、受験準備という目的のみに絡め捕られている現況である。高校における「国語」という科目に対しては、大学・短大・専門学校の小論文対策に対する期待が大きい。受験を目標にするがゆえに「古典教育=文語文法教育」となってしまい、古典嫌いの子供たちを増産し続ける。受験に出題されるものをという要求から、形式的で型にはまった技術を提供することになる。現代文であれば大学入試で多く出題される評論文指導に重点が置かれ、しかも文章を読む為の“セオリー”がある等という幻想を抱かせつつ、安易で楽な読解方法などが求められる。こうした結果、自ずと「文学教育」は置き去りになる。

 本来は、受験生の個性的な部分を見ようと意図した小論文入試も、いまや型にはまった書き方を技術指導することで、大概が同じような文章が答案となって提示されるという。こうした技術指導のあり方からすると、十人十色の解釈を巡ってテクストと格闘する「文学教育」は、収束点が発見できないという理由で無益なものと見なされる。だがしかし、十人の人間に出会ったら十人各様の個性があり反応がある。そこでどう対応するかということを人間社会では求められる。絶対的な「正解」などがあるわけではない領域で、多様な反応を表現し合い、享受し合い、摺り合せることで自分の人間的な要素が攪拌される。そこで得られた経験をもう一度自分自身の中で反芻することで生じる、心の化学反応が次への生きる力となるのではないだろうか。

 受験を始めとして、何事も合理的に効率よく処理することがよしとされる時代。だがしかし、人間として生きていく以上は様々な紆余曲折が必定である。受験技術に隠されてしまった文学教育の中にこそ、そんな紆余曲折が追体験できる要素が豊富に存在する。已むに已まれぬ葛藤を、文学世界という虚構の中で追体験しておくことこそ人生に必要なのである。それが小・中・高校を通して(場合によると就活に後半2年間を費やす大学も含め)その教育が「受験のため」の一点張りになってしまっているところに大きな問題が潜む。

 子供たちは、学習において安易な「わかりやすさ」を求め、面倒な回り道を嫌い始めている。そのまま大人になれば組織や社会の中で耐性のない存在になっていくのは目に見えている。今まさに、教育の構造全体を見据えた意識改革を、現場と有識者が一体となって行わないといけないという危機感をひしひしと感じる。


 魔法のように解けるようになるのが理想の教育であろうか?


 混沌として中で様々な矛盾を感じながらも、真を求めようとして歩む。

 そんな過程を提供してこそ、教育として意義があると思うのであるが。
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