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「・・・っ」調言葉に御用心

2011-09-18
 聞いた時に抵抗感のある言葉がある。それは人それぞれであるから、使用するのも各人の自由である。そんな前提ながら、なぜ抵抗感を覚えるのかを考えてみる必要もありそうだ。この日の「天声人語」にいわゆる「ら抜き」言葉への抵抗感の話題が提供されていた。

 文化庁の「国語に関する世論調査」では、「(朝5時に)来れますか」を使う人が、5年前の35%から43%に増え、本来の「来られますか」との両刀遣いを足すと過半の51%に及ぶという。10代では74%と圧倒的であるそうだ。この「ら抜き」に関しては、「天声人語」が示した井上史雄氏著『日本語ウォッチンング』(岩波新書)の見解である「千年に及ぶ日本語動詞の簡略化の一部」という考え方に賛同できるので、個人的な抵抗感は少ない。「受け身や尊敬の「られる」と区別する利点」という意味においても有効であることが大きい。古典文法などを仕事上考えなければならないゆえに、むしろ納得の日本語の「進化」であるように受け止められる。

 個人的に抵抗感があるのは、「天声人語」後半に述べられている「すごっ」「早っ」「でかっ」といった言葉である。「何でも語幹で驚くらしい」というやや皮肉的な「天声人語」評に賛成である。他にも「美味しい」ときに「うまっ」などは、美味しさも半減してしまうような感覚がある。省略語も汎用されて定着する例も多いのだが、どうもこの「・・・っ」調言葉は受け入れがたい。
 何故かと考えてみると、どうやらそれを連発する身近にいた人間に原因がありそうだ。言葉はその人間の思考を浮き立たせる。それを逆手に考えて、人間的な腹黒さが見える者が「うまっ」「すごっ」などと連発している場面に多々遭遇した結果、言葉そのものによる抵抗感以上に嫌悪感が増してしまったようだ。同じ観点で思い浮かべると、人の話に対して「は~」と返答するのにも甚だ嫌悪感が先立つ。中にはTwitter上などでも「は~」を見掛けることもあるが、その語感自体が以前に身近にいて抵抗感のある人物が頻発していたからだという思いが脳裏をよぎる。まあ個人的な事情を抜きにしても、「・・・っ」調言葉の投げ出し言い放つような感覚は、「和を以て尊しとす」を信条とする日本語として、あまり品がいいとは言えないと思うのであるが。


 前項に近い発想で抵抗感があるのが「嫁」である。どうやらTV等でお笑いの連中が頻発している“語彙”のように感じられる。(それ自体が偏見であるかもしれないが)しかも女優やアナを「嫁」にしたなどと、強引な文脈での使用が多いような感覚が伴うからである。もともと「嫁」という漢字は、「他家にとつぐ女」の意味で女性側の立場で使用される文字。「嫁に行きます」と女性が決意表明してこそ美しい語感が響く。(昭和の時代にヒットした「瀬戸の花嫁」などがその典型である。しかし今となっては、その歌い手は完全にそのイメージを反転させてしまったが。)あまり使用されない「娶」が「めとる」と訓じて、「嫁をもらう」という意味であるが、これはこれで男性側の強引で一方的に「手中におさめた」というような語感が伴う。どうしても字源にまで遡ると、中国古代の際立った男尊女卑社会が反映しているので、女性を卑下した感覚が伴う必然性がある。女性を同等の立場として考えるべきであるという感覚が、このような呼称への抵抗感となる。はてまた「妻」「奥様」甚だしきは「愚妻」など、極端に卑下した呼称を男性が言う傾向が日本語にはあるが、いずれも抵抗感が高い。『万葉集』時代の「妹背(いもせ)」というような、お互い“親愛な相手”を呼称する言い方は消え果てしまった。平安時代以降の男尊女卑思考が、日本語を形成している歴史を忘れてはならない。


 いずれも個人差が多く、若者はいつも新しい語彙を造り出す感覚に長けている。それは今も平安時代も同じである。使用するしないは個人の感覚による。何を五月蠅い事をという向きもあるだろう。

 だが言葉を扱うプロに類する立場にいる者として、どうしても抵抗感というフィルターが存在してしまう。だがその部分を知性と称し、美しい日本語を創り出していく先導者としての役割を果たさねばならないのだという責務を感じる。何事も番人が必要だと理解していただければありがたい限りである。
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