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孤独を恐れず対話に臨むー『ニッポンには対話がない』雑感(1)

2011-06-22
 「対話」という語彙が気になり『ニッポンには対話がない』(北川達夫・平田オリザ・三省堂2008)を図書館から借りてみた。フィンランド日本大使館に長年勤務し、帰国後その教育方法を具体的に紹介している北川氏と劇作家の平田氏の対談集である。この10年来、急速に注目を集めたフィンランドの教育方法。しかし、その核心的な内容は、果たして日本の教育界の深層に浸透し始めているのだろうか。


 「教える立場の人間が、「教え込むことの誘惑」を抑え込むことができるか。」(同書P9)


 「教え込む」ことは、ある意味で日本の教師の性癖になってしまっているかもしれない。自分自身が「唯一無二の正解」を裏に隠しつつ、その「正解」を導くための、いわば「仕組まれた」やりとりを繰り返し、最後には「正解」を種明かしする。その過程をいかに理解しやすく整理して提示するかがよい教育とされている場合が多いからだ。実は、その整理していく過程にこそ、学習者の思考の鍛錬があるのだから、「理解しやすく」してしまったら、その思考を奪うことになりかねない。裏を返せば、いかに「理解しづらく」テーマに向かって思考過程を辿るかが重要になるはずだ。

 同時に学習者側も、教師の教えることを従順に受け入れてはならない。しかし、教師は自らの勉強が不足している場合に、往々にして反論を威厳で押さえつける。極端な場合「刃向かうのか。逆らうのか。」などと批評や反論を封殺し、自らの勉強不足が露呈しないようにする。多くの日本の生徒が、そのような教育現場の環境に慣れてしまっているので、「意見の言えない日本人」が大量醸成されていく。もちろん、自ら深く学び学習者の批評に耐え得る教師が少なからずいることも事実であろう。しかし、様々な理由で批評に耐えるだけの力を持った教師が標準になるには、未だ時間を要するというのが現場での感想だ。


 「自分の信じる「よさ」を受け止めてもらえない。自分自身の価値観が批評的に評価される。人を教えるということは、そういう孤独に耐えていくこと。」(同書P11)

 「「だめだと言われたからだめなんだ」と思う人間を育ててはいけない。もっとも恐ろしいのは、思考を停止させる教育。」(同書P23)


 教育現場で「だめなものはだめと言うべきだ」という発言は、むしろ近年高まっているように感じる。教師が自分たちの都合のいいように学習者を思考停止に追い込む。


 「対立や選択よる痛みを通過して生まれる対話の場には、ほんとうのやさしさがある。」(同書P51)


 痛みのみを過度に恐れ、対話のない「ほんとうのやさしさ」のない教育現場がいかに多いことか。

 それは教師自身が、自らの働く職場内での「対話」を成り立たせていないから。会議は「対話」どころか、意見の一方的な押し付けの場であり、痛みは背後から暗躍たる陰湿な方法で個人個人に押し寄せる。「ほんとうのやさしさ」が芽生える土壌が教育現場の組織自体にない。


 「自分の経験の絶対化からは、何も生まれない。経験のある人と、経験のない人が対話をすることによって、新しい発想は萌芽する。」(同書P61)


 同書の記述によれば、現在の50代60代にこの傾向が強いという。年齢や職種を越えたフリートークの場である「哲学カフェ」などの場に来て、自らの経験を絶対化して他者に押し付けるのは、この年代であるという。それは教育現場でも同じ。


「だれもがそれぞれの地域社会に出て、積極的に対話をすることが社会にとって究極のリスクマネジメント」


 教育現場にいる人間は、自らの殻、自らが所属する職場の殻から外に出ようとしない。自分自身を別な価値観がある場に曝すことで、真の「対話」が初めて成立する。


 以上、同書の序章・第1章を読んでの雑感を書き連ねた。(続く)
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