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個性の反転―教育に表現(演劇)を

2011-06-19
日本では「個性的な意見」を述べることが尊重される傾向にある。少なくとも教育現場においては、「個性的でいい」ということが斉唱のように語られていて、その対応自体がまったく「個性的」でない。それはあくまで単純な図式で示すと、平等主義の反動から「みんなちがってみんないい」というような個性尊重が叫ばれる結果になったのだろう。

 だがしかし、書物を読んだ際の捉え方などに個性が認められているかと言えば、むしろ正反対な状況にある。読解には唯一無二の答えを求められ、「作品の主題」「作者の言いたいこと」などへの見方は一律であり、それをマルかバツかで採点され、指導者・採点者の見方に収斂して「答えは一つ」となる。読解という範囲において「個性」などは抹殺されているに等しい場合が多い。仮に「個性」を発揮するならば、低い成績評価を覚悟しなければならないのだ。


 欧米の教育現場では「演劇」が必ず取り込まれているということを、『コミュニケーション力を引き出す』(平田オリザ・蓮行・PHP新書)に教わった。それは小中高大を問わないというのが、また驚きである。MBAコースなどでも「ドラマ型の授業」は必須であり、MIT(マサチューセッツ工科大学)など理系の名門でも芸術的な「表現」の科目が必須だというのだ。しかし、在学生たちが殆ど苦労なくこうした科目に取り組めるのは、小中高時代に「演劇」を学校で学んでいるからだという。

 近年、注目を集めたフィンランドの教育においては、国語教科書で各単元の最後が、たいてい「演劇的手法」になっているという。教材で読んだ内容をもとにして「劇・人形劇・ラジオドラマ」などを作製して表現するというのだ。その際の姿勢は、次のようであると同書は説いている。


  「基本的に彼らは「インプット、感じ方は人それぞれでいい。バラバラな方がいい。でもそれだけでは社会生活は営めない。何らかの形で集団で共有できたものを、合意できたものとして時間内にアウトプットしていこう」という姿勢で、教育を行っているのです。」


 バラバラである感じ方を許容し、それを表現する際に折り合いながら「いかにしてまとめたか」を大切にしているというのだ。そうした意味で、社会の要請と一致した思考形態が育つのだという。


 一般の方が行う人前でのスピーチ・プレゼンから、公人である政治家が行う答弁・会見に至るまで、日本人が世界基準で見て「話下手」であるのは、教育の中で「演劇」を含む表現学習を行っていないからだと考えれば、大いに納得してしまうであろう。


 その上で、個性の在り処をまったく反転した位置に据えた教育を行っている。


 「演劇」を含めた表現学習の導入は、日本の教育現場に急務であると痛感すると同時に、自らがその旗頭にならねばならないという使命感を深くするのである。
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