特例と通例の狭間
2011-03-20
19日(土)特例と通例の狭間にある現在の様々な事例で、何にどんな意義があるかを改めて沈思すべき時だと思う。これだけの状況の中で、通例に従うだけでは思考停止も甚だしい。されど、特例が万能な訳ではない。日常化していた事を、複眼的に見直すよいチャンスだと前向きに考える人でありたい。特例な事だから特別措置ばかりが適応されるというのも、それまでの蓄積や思考を無視することになるので、甘んじてもいられない面がある。しかし、現実に通例では如何ともし難い状況が生じている中で、既定路線にのみ留まっているのは、思考の柔軟性に欠け、甚だ固着した行動になってしまう。要は両者の狭間において、どれだけ均衡が取れた思考を持ち得るかで、今後のあり様が決定的に左右されるはずだ。
買い占めなどという行為も、特例な状況を分析できず、雰囲気に左右されて根拠なき行動に出る典型的な例であろう。一方で、社会状況の困難さから大学等で相次ぐ卒業式の中止などについては、通例不可欠であった事が行われない典型的な例でもある。状況を十分に鑑た措置であるのは確かであろう。ただ、卒業生にとっては一生に一度の何にも代えがたい通過儀礼でもある。その意義を見失っていた大学教育のあり方まで踏み込んで、通例の検証を行うとともに、特例な事態だからこそ特別措置により、何らかの形式で実施する方向はないものかと思ってしまうのだ。
この日の夜、福島第一原発で放水作業を行った東京消防庁の警防部長以下、現場で指揮を執った2人の隊長が会見を行った。TV映像でその言葉の一句一句を受け止めながら、放射能濃度が高いという特殊な環境で極限な使命のあり様が、ひしひしと伝わってきた。命の危険に曝される任務に向かう際に、家族から「日本の救世主になって下さい」というメールが届いたという。また隊長として「隊員たちの家族のことを思うと」と呟いて、会見中に絶句した場面も見られた。消防隊員であれば、通例として命懸けの任務があるのは事実であろう。しかし、放射能濃度が高いという極めて危険な環境での特例な使命を遂行するために、その心のあり様は想像を絶する葛藤が渦巻いていたことを感じさせた。
様々な事例において、それぞれの持ち場において、特例と通例の狭間に揺れる心が散見される。
それゆえに、その均衡を深く意識する柔軟な思考が求められている。
物事の意義に対して逐次、知的に多面的に考えようとすることを通例とする人でありたい。
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