日本の恋歌前期講義最終回ー恋愛を学ぶ機会として
2023-07-26
サザンや昭和歌謡曲とともに短歌から恋の諸相を考えていく
「自分の恋愛を初めて言語化しました」という感想
私たちは「恋愛」をどこで学び、どのように実践するのだろう?多くの生活習慣は親に学び、読み書き計算は学校に学ぶ。多くの人が「初恋」の経験は「学校」を舞台とすることが多いはずだが、なかなかその術を学ぶ人や機会が用意されているわけではない。例えば「国語」の授業でも、牧水の「白鳥は哀しからずや」の歌を教科書で学ぶが、背景に「恋愛の哀し」があることへの言及はなされない(指導書がそうなっている)ことが一般的であろう。栗木京子さんの「観覧車回れよ回れ」なども教科書に採録され中学生に人気な歌であるが、そのわけは〈教室〉で「恋愛」が語っても許される範囲の淡く切なく甘酸っぱい恋に読めるからだろう。しかも「鑑賞文」という枠の中で、整序された「恋愛」が語られる授業に留まることが多いのが現状だ。他の小説教材なども含めて、せめて中学校高等学校では、もっと「恋愛」について考える機会があってもよいのではないか。
「これが大学の授業なのか?」という疑問に近い感想を受講の学生たちからいただいた。この日は「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」の前期最終回の講義であった。100人を超える受講者から講義の感想・私への質問など「ラジオへのハガキ(メッセージ)」のような100字程度のコメントを課題として提出してもらい、なるべく多くのメッセージに応えるという内容で進めた。普段はあまり聞くことがなかった「昭和歌謡」の曲に触れられてよかったという感想とか、サザンオールスターズにハマったなどの嬉しい感想も見られた。実はいつの時代も私たちは歌謡曲やJ-popの音楽から、自然と「恋愛」を学んでいるのではないだろうか。サザンや桑田佳祐ソロの楽曲を並べてみても、様々な恋愛事情を垣間見ることができる。先日も桑田さんがラジオで「歌詞は妄想で書いた」という趣旨の発言をしていたが、例え歌詞制作上は「妄想」であっても「恋愛の諸相」として語り合える機会が大切なのだと思う。(文学の虚構性と同じ)現状はだいぶ改善されたであろうが、中高部活動での「恋愛禁止」などに見られたように、「恋愛=悪」のように見てしまう「学校」環境をもうそろそろ終わりにしてもよいのではないか?こんな思いも込めて、「大学」の基礎教育科目として全学部の学生たちと「恋歌」を通して「恋愛」についての対話をしている次第である。
次年度へ向けて新たな展開も考えたい科目として
多くの若者がサブカルチャーから「恋愛」を学んでいる
「恋愛忌避」「晩婚化」「対人拒否」などについてまずは若者たちと考えるために。
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