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講義の新陳代謝

2023-07-19
一定のパターンができたからこそ
新たな道を模索してこそ活性化する
時代とともに学生の要求に応えつつ

高等学校「国語」の教科書は義務教育のように限定されず多くの出版社が制作・発行しているが、全ての出版社の教科書に掲載されている作品がある。芥川龍之介『羅生門』と若山牧水「白鳥は哀しからずや」である。(現行学習指導要領版になって確認していないことをお断りしておく)現状の高等学校進学率を考えると、国民の全てがこの二作品は必ず学ぶと言い換えることができる。だが『羅生門』はほぼ「全て」と言えるが、「白鳥は」は「必ずしも全て」とは言い難い。このあたりに高等学校国語教員の偏向した思考が垣間見える。散文・韻文の偏向問題はさておき、『羅生門」を全ての出版社が採録する理由に、「学期が始まって1ヶ月ぐらいの忙しい時期に、教員がやり慣れた授業ができる」という「作品評価」や「指導観」とは全く別な問題で掲載されているという指摘がある。つまり高校国語教員が一度『羅生門』の授業をすれば、あとは「再放送」をくり返せばよいという理屈が陰でまかり通っているという指摘である。

いま「再放送」という表現を皮肉めいて使用したが、かつて高校教員だった頃、平然とこの語を自慢げに言う輩がいた。もちろん各教科を専科で担当する高等学校では、「同じ授業」を複数の学級ですることになる。基本的な「方法」は「再放送」であろうが、学習者が違えば「全く同じ」でいい筈はないというのが僕の実感である。眼の前の学習者の実態に合わせて、授業は「ライブ(生き物)」として変化せねばなるまい。高等学校でもこのように「再放送」が横行している実情があるとすれば、大学講義はなおさらだろうという印象を抱かざるを得ない。だが最近、自らの講義を省みて思うのは、年々の時代や学生の変化に対応して講義も新陳代謝をしなければならないという思いを強くしている。確かに忙しさの中において「再放送」のようにできる講義は、ありがたさを覚える時がある。だが教壇で話していて、その内容にどうも自らが新鮮味がなく学生の反応と呼応しないのではないかと思ってしまう。大教室での講義であれば、なおさらこのような思いをいたく感じてしまう。講義で構想したことは、一冊の書籍にでもまとめれば良い。その上で、新たな発想のある講義を開発してこそ、自らの研究も前に進むということだろう。

5年間にコロナ禍を越えて来て
対面の意義、オンライン上の課題の意義
既に次の講義構想は作成してある。


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