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正しさの欺瞞とAIの行き着く先

2023-07-13
正しくなければならないに脅え
身動きができなくなる思考に陥らないために
いまここにしかない最適を多面的に考え出すということ

「正解!」という言葉が、日常で使用されることは少なくない。例えば、飲食店を選んで入店したところが美味しければ「正解だったね!」と言い合うあれだ。我々は小中高において「○か✖️か」における「○」を、試験で求められ続けて青少年期を過ごして来る。もちろん高校入試や大学入試でも「○」が多ければ、人生の進む道が変わって来る。だが特に人文学系の科目であれば、「正解とされている」内容でさえ学問上の一解釈に過ぎない。文学の解釈も歴史の認識も、ある一定の立場からの思考のとりあえずの結論であり「絶対」ということはあり得ない。よって大切なのは試験での「正解」ではなく、あれこれと「探究的に思考する過程」である。できるならばこの「過程」を存分に評価する入試であるべきと、僕は生涯を通じたテーマとして思考して来た。

昨今の学生と接していて「正解の呪縛」に脅かされてはいないか?と懸念することがある。教育実習でも「正しい授業」をしようと求めているようで、どこか窮屈な印象がある。いまその場で向き合う子どもたちにとって「最適」な世界でここにしかない授業、決して「正しい」などという狭量な尺度で「授業」は成立し得ない。考えてみれば「正解の朗読」「正解の文芸創作」など、甚だナンセンスな面でも「呪縛」から解放されないような雰囲気を感じる。最近は様々な面で話題となる「AI(人工知能)」は、果たして「正解」なのだろうか?短歌誌にも言及があり、「それなりの短歌」を作り出すそうだ。「AI短歌」の典型的な例を誌上で読んだが、どこか講義課題で初心者の学生たちに作ってもらう短歌の雰囲気に似ていた。「正解主義」の行き着く果ては、どうやら「人工知能」なのか?その無味乾燥な一首に「ニンゲン」としての「心」「魂」を入れるものは何か?思考する過程の葛藤・錯綜・混乱が入り混じってこそ、いまここにしかない「短歌」になるのだと信じている。

一つの教材にも様々な方法が
混濁した思いを言葉にしてこそ救われていく
人は何も「理路整然」でばかり生きているのではない。


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