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こころのかさぶたはやがて筋断裂のように

2023-07-06
「人は悲しみが多いほど、人には優しくできるのだから。」
(『贈る言葉』作詞:武田鉄矢・作曲:千葉和臣)
あの頃の「かさぶた」見いつけた!

「かさぶた」というのは傷ついた出血部分が、血小板の働きで固まり出血を抑えるという人間の恒常性作用である。血液が流れ続ければ生命に危険が生じるが、凝固作用がそれを助けることになる。だが気になるところにある「かさぶた」は、なぜかその「ぶた(蓋)」を剥がしたくなってしまう。せっかく治癒に向けて固まったものに、なぜ人は手を掛けるのだろうか?子ども時代から青年期には、特に無意識にかさぶたを剥いていることがあるのはなぜだろう?もとより人間には、痛みを欲する自虐的な本性が眠っているということなのか。若い頃には「身体的なかさぶた」が気になったが、(もっとも大人になると身体に傷を作ることも少ないのだが)大人になると「こころのかさぶた」があって、ちょっとしたことで剥いてしまうことがある。特に文学に向き合っているせいだろうか、こころに様々な症状が出ることを自覚することが少なくない。

一昨日、母としばし昔話に興じた。主に僕自身が中学校・高校時代の「学校」のことが話題になった。教えを導いてくれた数人の先生が思い出される一方で、まさに「古傷」があることも再確認できた。僕自身がやりたい「文学」に向き合いながらも、どこかで「教育」を考えたいのはこの「古傷」のせいなのだと悟った。「このような授業では?このような教師では?」という青年期の傷が、大きな反発となって僕のこころに刻まれているのだ。だが考えるに、それはもはや「かさぶた」ではない。若き「筋断裂」を超えて僕自身の「筋肉」となって、今の言動を支えてくれている。過ぎた日々は戻らない、ならば経験したことは「かさぶた」のまま古傷としておくよりも筋肉にしてこころの動きを支えてくれると思った方がいい。筋肉は負荷がかかり筋断裂をすればするほどに育つわけだから。ちょうど僕の中高時代には、TVドラマ「金八先生」が流行っていた。冒頭に記した歌詞は、「悲しみ」による「筋トレ」をした人こそが、「人には優しくできる」ということを言っていたのだ。

「他者のこころの痛みがわかる」ということ
それゆえに苦しむこともあるのが人の世である
であるならば、「悲しみが多い」人として生きていきたい。


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