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ほととぎす[杜鵑草]の啼く音

2023-06-09
今朝はその啼く音で目を覚ました
「寂しがり屋の誰かを励ますように
 こぼさぬように涙を」(桑田佳祐「ほととぎす[杜鵑草]」より)

牧水の鳥の歌についての評論原稿(『短歌往来2023年7月号』掲載予定)を書いてより、日常から鳥の啼く音に敏感になった。小欄を書いている際に窓を開放すると、幾種類かの啼く音が耳に届く。今朝はまさに幻想的な寝覚めの半覚醒な感覚で、我が家の真上あたりから「ほととぎす」の盛んな啼く音を聞いた。牧水も自らの「心の友」の一つに数えていた「ほととぎす」、その啼く音は古典より様々な捉えられ方で和歌に詠まれてきた。その特徴的な「拍」の刻み方から、人は様々な感情を重ねてきたということだ。

鳥の啼く音を聴き分けるには、それぞれがどのように啼くかの知識が必要だ。欧米言語文化圏の人々が「虫の鳴く音」をほぼ聞こえないか「雑音」にしか捉えられないというのは、聴覚そのもというよりは「生きた文化的知識」の問題なのかもしれない。「知識」というものは「覚える」ためにあるのではなく、「気づく」ことに活用されるものであることを教えてくれる。「ほととぎす」の啼く音にも、人間はその「音」に惹きつけられ、「イメージ」を抱き、「意味」を見出した。それは短歌の三要素と共通する。今朝の半覚醒は、僕にまずは「音」のみを伝え、次第に覚醒の度を増すと「イメージ」や「意味」を考えるという段階を強力に意識化させてくれた。

明け方の「ほととぎす」は何が言いたかったのか?
小欄のような言語化の場では意味を問うものになる
だが「音」は人間の本能や本性に深く関係するのではないかと教えてくれた。


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