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街で出会う老人たちへ

2023-06-06
電車に杖をついて吊革を掴み立つ老人
いささか離れていても荷物があっても僕は立って席を譲る
それは老人に自分の親の姿を重ねたからだと・・・・・

先月、東京への研究学会に赴いた時のことだ。羽田空港からの京急車内、僕は始発ゆえに荷物を足元に置いて座席に座った。空港関連の駅を過ぎ大田区の街の駅になると、空港利用ではなく一般のお客さんが乗って来る。だが僕のような空港からキャスターバッグを足元に座る客で、ほぼ席は埋まっている。そんな際にある駅から杖をついた老人が乗り込んできて、仕方なく片手で吊革に掴まり電車は走り出すべくドアが閉まった。その光景を見て僕はきっと誰かが席を譲るだろうと期待をして一瞬は傍観した。だが5秒・10秒、誰も席は譲らない。僕の席からはドアを挟んで反対側に立った老人だが、僕は立ち上がり老人の肩を叩いて、僕の席に座るように促した。老人は「すいません」と言って、ドアの分の距離を横に移動しそれを僕は支えつつ席に着いた。それから4駅か5駅して、老人は「ありがとうございました」と僕に頭を下げて電車から降りて行った。もちろん東京の人々がすべてこんな風ではないが、杖で吊革に掴まる老人を見過ごす街に甚だ冷酷さを覚えた出来事だった。

幼少の頃から、街で老人を見ると助けたくなる気持ちが働く。どこかで自分の祖父母のようだと思い、いささかのあわれさを伴い自らなんとか手を差し伸べたくなるのだ。東京在住時は常連となった洋食店で、やはり常連として来店する90歳代の老人と友だちになったこともある。幅の広い道路の横断歩道を渡らないとその洋食店に来られない老人は、1回の「青」で横断歩道を渡りきれず警官に注意されたことがあると話してくれた。だがその場合、警官は「注意」でいいのかといささかの憤りさえ覚えた。その老人との付き合いでわかったが、人間には親族ならずとも自分がこの世に存在するために必要だった人が居るのだ。本当はその際たる人物が、自らの祖父母や父母なのだ。だがしかし、親族だけにむしろ前述したように擁護したいとか、話して学べるとか思えなくなる時がある。きっとなお確実に僕が今まで生きてこられたことを、支えてくれたはずなのにである。子どもの時に感じていた尊敬が、自分も大人になって時あるごとに崩れてしまうことがある。親が晩節を汚すことを、目の当たりにしなければならないのも親族ゆえだ。本当はあの電車の老人や、洋食屋で出会った老人のように、やさしく親しくしたいのに・・・・・。

老いてなお、いや老いたゆえ露出する生きてきた習癖
「他人のことを自分のように」と吉野弘の「夕焼け」にあった
電車で杖をついて吊革に掴まる老人を見過ごさない社会でありたい。


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