Poetry Readingー詩は詠う声に出して演じて
2023-06-05
劇団SPC総合文化祭「文学」藤崎正二さんらの詩を空間で声に出して演じて
詩は日常の中にありそしてまた昭和を今に伝えている
「国語教師」に必要な素養・資質は何か?そんなことを考える時、筆頭に思うのは自らが「文学を好きで好きでたまらない」ことだと思う。身近にある「教員養成」を見回すと、いささか指導技術に傾きがちで違和感を覚えることが少なくない。さらにいえば、自らが「文学研究・評論」「文芸創作」とか「演劇」に携わっているべきだと思う。「表現」を探究し続け、自らが言い訳なく「発信」していてこそ、学習者に「コトバ」を伝えることができるはずだ。少なくとも「国語教師」は「花を贈る意味」を知っていなければ、良い仕事はできないように思っている。とりわけ「創作」が前面に出ている現行の学習指導要領では、この考え方が重視されるはずである。こうした意味で宮崎で詩人としても活躍する藤崎正二さんの活動には、いつも刺激と敬意を表することが多い。この日は、藤崎さんの詩を演劇・音楽で立体化した表現にする会を観覧に行った。
詩も短歌も「生きている」ものだと信じている。そうは思いながらなかなか実感が得られず、ついつい「書いてある文字」として「よむ(読・詠)」ことを脱することはできない。「詩歌」を創作することを「書く」という動詞で表現する場面に最近よく出会うが、少なくとも僕はその動詞は「詠う」であると思う。「詠う」は単に「声を出す」ということのみならず、字源としても「声を長く引いてうたう」の意味ゆえに、「声」から発して次々と派生的に形を変えていくものだと考えたい。標記の公演を観て、一層その思いを強くした。詩歌が文字として「表現」されたのは、氷山の一角に過ぎない。海中で見えない部分を、作者が書けなかった部分を読者が想像して物語を想像し拡げることで、ようやく真に表現したいものへと到達する。この考え方に基づき、鑑賞文など空虚な機械的捉え方ではなく、短歌の物語化・脚本化などを講義課題にしている。この日の公演で詩が演劇化されたのを目の当たりにして、自らが考えていることが大いに意義深いことがわかった。さらには「音読・朗読」研究の上でも、やはり決して「文字を読む」のが「朗読」でないことをあらためて悟った。
詩歌は生きている
懇意にする役者さんの一瞬の目線や表情が好き
詩歌と演劇と音楽のあるみやざき、やはり僕はこの土地が大好きだ。
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