笑いこそ学びの水源ー地域コミュニティを落語で繋ぐ
2023-03-11
この3年間の閉ざされた声と笑い回復の狼煙を上げるための落語のちから
地域の学校・住民と大学生がつながるために
「無言・黙食」そんな「規律」が強要されてきたこの3年間、学校でも「マスク」という名の仮面を装着してより内向的な日々が続いてきた。教育の方向性は「主体的対話的」とされ発言し他者との交流を深めるべきところ、「受動的内向的」な学びにならざるを得なかった闇のトンネルのような日々であったようにも思う。もちろんこの感染症との付き合いは、今後も100年以上にも及ぶだろう。だからこそ本来のあるべき教育と日常を僕たちは取り返さねばなるまい。この日は従来からゼミ生が絵本読み語り活動でつながりを作ってきた、大学至近の小学校2校で落語教室を開催する運びとなった。東京より金原亭馬治師匠をお招きし、小学校の学年を超えて落語の妙に子どもたちの笑い声が湧き上がった。小学校では特に学びを提供する際に「発達段階を考慮」せよとされるのだが、落語という話芸については共通の噺を1年生から6年生まで聞いてもらった。午前中の小学校では全校で一堂に会して、午後の小学校では2学年ごとに聞いてもらった。興味深かったのは、2学年ごとの場合に笑いのツボが微妙に違うこと。もちろんわからない言葉はあるが、「説明」されるのではなく、「語られる」ことであらゆる子どもらが楽しめるのが落語という話芸なのであった。
「学習」ということを考える際に、「大人」は「この段階の子どもらにはわからない」と一方的な思い込みをしていることに新たに気づかされる。ちょうど高等学校の「古典学習」で「文法体系がわからないと話は読めない」という傲慢な上から目線が、古典教育を崩壊させていることに気づかないことと似ている。「説明」や「解析」という分野は確かに精度の高い「理解」には必要なのであろう。だが僕らの日常生活、特に情操的な部分においては全て「説明・解析・論理」が必要なわけではない。少なくとも映画を観る際に、登場人物の発言を「言語的分析」を加えながら鑑賞する者はむしろ「映画を観た」とは言えない。「国語」という教科の考え方として、「話芸」「語り」で学べるという面を復権させるべきではないか。あまりにも「論理」と「解析」に満ちた学びは、社会を傲慢につまらないものにしていくしかない。2校の公演を終えて、夕刻からは地域のお寺の本堂を会場にしたコミュニティー落語独演会。落語の発祥からしてお寺の説法であったという説があるが、本堂での高座はなかなかのものであった。地域の学校のみならず、地域の住民の方々と学生たちがつながることの大切さ。大学講義では保護者対応や社会性を養える要素は皆無である。翻って大学教員そのものも、社会に開いた視野を持った存在であるべきなのだろう。
落語に笑えば3年間の垢が流し落とされるよう
コミュニティースクールの構想にも関わりながら
学生たちの学びをさらに広い視野で社会に開きたい。
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