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水源を訪ねる欲求ーSDGs歌人・若山牧水

2023-03-07
銚子の壮大な河口から海に注ぐ利根川
その水源はどこか?と求め求めて訪ねる旅へ
旅とは命とは人とは?自然の一部として古代のような懐の深さ

もはや丸3年にも及び人類が悩んだ新型コロナ感染拡大、ようやく以前の日常が回復しつつある。「若山牧水顕彰全国大会みなかみ大会」に参加して、2日目の早朝寝起きに温泉へ向かった。前日の心地よい地酒の香りが残りつつ、浴衣にタオル1枚を片手にホテル館内を大浴場まで歩く。出で湯に浸かり身も心も牧水そのものの気分になり、いざ部屋へ戻ろうとすると「マスクをして来ていない」ことに気がついた。幸い往復のエレベータでは誰とも会わず、特に怪訝に思われることもなかった。爽快な気分を求めるとき、人間は自然な呼吸をしている口鼻を塞いではならないのだろう。今回の「みなかみ大会」で深く考えさせられたのは、「源を辿る」ということだ。牧水『みなかみ紀行』を読むと、明らかに「利根川水源」に辿り着きたいという欲求が読み取れる。「水源」に発した川は次第に幾筋かが合流をくり返し大河となり、やがて大海に注ぐ。眼の前の水を汚せば大海を汚す元となり、大海を汚せば蒸発して雲になり雨となり我々人間の上に汚れが降り注ぐ。

「水源」らしき場所に辿り着いた牧水は、顔に水を浸し頭から被り腹一杯に呑んだとされるが、「水」そのものに自らの身体を同化させている。現代人である我々は、自然の中で偶有な水に向き合ったら、「果たして飲んで大丈夫か?」と疑うことを第一に考えるであろう。その「疑念」は、この100年ほどの人類が作り出した「自然への軽視」から生じる自業自得な傲慢そのものなのではないか。「みなかみ」という牧水が好んだ言葉と場所、「月夜野」「新治」「水上」が合併して行政上の「みなかみ町」になったわけだが、牧水の歌集名や紀行にちなんでひらがな表記にしているのは、こうした「水源」への畏敬の念を含めた「思想」であるようにも思う。胸に手を当てて考えてみよう、自分自身の「みなかみ(水源)」は何処なのだろうか?と。すると自ずと故郷を辿り親を大切にし、自他の命を大切にする思考に至る。この時代、世間では盛んにSDGsが喧伝されるが、既に100年以上前に若山牧水は人類的な視野でそれに気づいていたのだ。

「あくがれ」はすなわちSDGsに他ならず
上越新幹線で東京に戻り自らの水源を訪ねて墓参と散策
自らの存在そのものが自然の一部であることをさらに深く認識したい。


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