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「ねばならない」から抜け出そう

2023-01-27
「学校」で言われる「・・・ねばならない」
「多様性」と言いながら「横並び」と「空気」の社会を作る
やりたいこと言いたいことをやって個性が光る社会へ

「主体性」は、現在の学習指導要領でも筆頭に求めている個々人の多様性ある資質である。OECD(経済協力開発機構)の「PISA」と呼ばれる学力調査で、2000年代になってから、「読解力」など日本の子どもたちの世界における学力の低下が大きく問題視されてきた。その結果、現在の共通テストのような形式となるなど「対策」を講じたがゆえに「読解力はV字回復をした」などとメディアなども報じる時期もあった。だが真にこの20年間ほどで、日本の子どもたちの学力は回復したのだろうか?日頃から問題に感じるのは、「対策」を取ったから「テスト」では一定の成果を上げるが、個人の資質・能力を真に開発しているのかという点である。昨今でも「全国学力テスト」の過去問を授業で実施するなど、「対策」を実行していた学校があったと報じられた。「テスト」とは、あくまで日頃の学習成果を測るものさしであるはずだが。

学力以上に、いつも僕が問題に思うのは「主体性」である。子どもたちは「対策」を「やらされて」いる。やりたくなくとも「・・・ねばならぬ」と学校で強制される。その図式は私立中学校受験などでも同様で、真に「子どもたちがやりたい」ことなのかどうか?甚だ疑問である。いつしか「ねばならぬ」受験対策に翻弄され自らの興味や関心のある学びをすることから遠ざかる。もとより多様性と言いながら「学校」という制度の中では「ねばならない」が多過ぎる。「国語」において考えても、「音読」「漢字」「感想文」「暗唱」「鑑賞文」などあらゆるものが「ねばならない」ものとして強制されるので、主体的に自らの興味関心を活かした選択の学びにはならない。人間は往々にして「ねばならない」と強制されたり、「空気」に支配されるとそれに反抗したくなるものだ。「国語」の「音読嫌い」「感想文嫌い」はこうした点に起因すると思われ、決して教材そのものが嫌なわけではない。大学となればより主体性ある個々人の選択を尊重し、広く大きな視野で将来を見据えた学びを選びとってもらいたいと思う。学生たちはその特権ゆえに、もっと自由でよいのだなどと昨今は強く実感する機会は多い。

自らがワクワクするものを選び取る
心が燃える自然と向き合えるものは何か?
この3年間で社会に「ねばならない」が増えたが、今こそ自らの頭で考えたい。


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