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「ぶんぶん分裂して飛んでゆけ」自己同一性と偏り

2022-12-30
「我という三百六十五面体ぶんぶん分裂して飛んでゆけ」(俵万智『サラダ記念日』)
果たして常に変わらない「自己同一性」などあるものか?
偏りも好みもぶんぶん分裂すべし

「広い視野で偏りなく物事を見たい」中学生の時に思って以来の人生の信念である。中学3年間を通じて担任教師で教科も国語だった恩師が、いつも「広い世界へ視野を拡げよう」と言い続けていたことが契機であった。だが高校も通じて部活動にも明け暮れたあの頃、「視野を拡げる」ことそのものがどうしてよいものか?わからなかった。中高一貫の男子校で荒々しい学校であったので弱味を見せて「やられる」ことを避けるため、部活動でも活躍しクラスの多くのタイプに馴染めて成績も良い三拍子揃う「兜」を纏うことで自己防衛をしていたのかもしれない。中学の入学当初は、たまたま席が近い者に傾き話ばかりしていて成績が落ちたこともあった。彼はその後、いわゆる「不良の総大将」のような存在になったが、僕は「野球部」に夢中な自分を見せて彼から離脱することに成功した。当時まだ現役で活躍していた王貞治さんの野球への取り組み方をみて、生きるには「誠実さ」が必要なのだとも考えた頃だった。意識はせずとも自らがいくつかの「仮面を使い分ける」ことをしている「分裂体」であることを、今思うと中学校時代にも経験していたわけである。

「学校」というのは、「いつも変わらぬ自己同一性がある」ことを「強要」する場所でもある。児童・生徒が思わぬ行動を取ると「あなたなそんな子ではないでしょう?」と指導する教師が多くいるような気がする。そのように言うことで、反発や疑問があっても年度当初に被っていた「仮面の性格」しか許してもらえなくなる。人によっては「先生に受けのよい仮面」を意識的に着用し地歩を固め、裏ではとんでもない言動をしている「表裏」が横行する温床でもある。否、「分裂体」の理屈からすると「表裏」が悪い訳でもない。問題なのは「裏」にして見せず、利害関係のために暗躍するのがいかがなものか?と思うのである。また「物事は公正」であるのがいいとされるが、果たして「真に公正な考え」などあるのかと思うこともある。「分裂体」として「偏り」を経験することで、その是非や善悪を悟り自らの中心軸を作るのではないか。大学生になってまさに大海のような思考・思想に触れるようになった。未だ学生運動の名残のあるキャンパス内で、「僕って何?」という疑念ばかりが渦巻いた。恋愛や失恋を含めて精神的な「自己倒錯」や「自己嫌悪」をくり返し、とりあえずの「広い視野で偏りなく」になったと思い込んだ。だがその後の人生でも失敗がなかったわけではない。今もなお、「自己同一性」という幻想ではなく、「三百六十五面体」なのだと毎朝のように思う。年末年始にあたり、あらためて宮崎で生きる「中心軸」を見定めてみようかと考えている。

「世の中を嘆くその前に
 知らない素ぶりをする前に
 素直に声をあげたらいい」(『時代遅れのRock’n Roll Band』より)


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