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思い込みを排して教材に向き合う

2022-11-18
「清少納言ってこんな人」
「知識ありき」の思い込み教材読み
いや教材テクストあっての「清少納言と呼ばれる人物」

世情では「ありき」という構図で話が進むことがあまりにも多く、いつしかそれが「普通」かのように見えている危うさに包まれている。「結果は最初からありき」であり、途中で審議したり検討していることは「茶番劇」のような見せかけの過程である。どんなに過程で疑問が呈されても、当初から決められた「結果ありき」というわけである。ほとんど「民主主義ごっこ」のような様相で「隠れた独裁」が進行しているとも言えるのかもしれない。一国の将来を左右する重要な懸案が、一人の指導者の「思い込み」で次々と決定されていく。世界情勢を見るに、このような「強権独裁」の図式が平然とまかり通るようになってしまっている。「思い込み」はエスカレートし、次第に力で我欲を満たそうとするようになる。欧州発で世界がキナ臭くなってしまった今年を省みて、やはり起因するは「独裁者の思い込み」なのではないかと痛感する日々だ。

この「思い込み」の構図は恐ろしいことに、中学校・高等学校の学習で刷り込まれてしまうのではないかと危うさを感じる事例がある。もちろんこの構図に当てはまらない先生も、少なくないことをあらかじめお断りしておこう。学部2年生後期で、毎年『枕草子』を教材に演習を担当している。多くの学生は「清少納言は自慢めいたことばかり主張する嫌味な女だ」という「ありき」の感情を抱いている者が多いのに驚かされる。たぶん高等学校で『紫式部日記』の「清少納言評」を根拠に、そのような作者像を知識として刷り込むことが為されているように思う。するとこうした学生は、「嫌味な清少納言が記した作品」だということを前提として教材に向き合い発表をする。つまり「清少納言ってこんな人ありき」で、この古典作品と作者を語るのである。したがって僕は、「作品のテクスト本文そのものや作者のあり方」そのものを疑って発表をするように促すのが大抵である。『枕草子』などの古典作品に限らないが、やはり中学校・高等学校では「作者はこういう人だから作品がこうなった」という「思い込み作家論」の構図で扱われることも少なくないことを知る。否、このテクストそのものの本文を文献的に批判し、そこから人物を読み取ってこそ適切な理解になるのだ。中等教育で肝要なのは「批評性」を身につけること。世界から「思い込み独裁」がなくなるように、「国語」の学習のあり方から僕たちは注意深く向き合う必要があるようだ。

なぜ「自慢めいた話題」を書き付けているのか?
その原因を同時代的に探究する視点
敢えて「創作主体」という用語で「思い込み」を排することを教えている。


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