言語は資質・能力そのものではないか
2022-11-12
日常言語生活→言語活動→言語(知識・技能)言語を核とした同心円のように学習単元は構成される
学習評価は「言語活動」を中心に「日常言語」でいかに活用されているか
学習とは、「資質・能力」を育むものであると学習指導要領には提示されている。学んだ結果、「何ができるようになり、どんな力を持った人となるか」が重要な評価指標である。その「力」を育むために、三つの観点が設定されている。中心を同じくする同心円を、思い浮かべていただきたい。その核心には「言語(知識・技能)」があり、外周に「言語を動かしいかに活用するか」を促す「言語活動」がある。さらに外周には「言語活動」を実践した結果、どのように「(自ら)学びに向かう力」を持った「人間性等」が育まれるかという構造になっている。この同心円の総体を「単元学習」と呼び、計画的に「国語」における目標に適った「資質・能力」が養われるという訳である。この構造を鑑みるに、「言語」は表面的に活用される「言語活動」を通して、「人間性等」そのものであると見ることができる。言語観や学習観は様々であるが、少なくともこの国の小学校・中学校では、「言語は資質・能力そのもの」であることを前提に母国語を据えた学習が為されているわけである。
短歌を作ると、歌会へ投歌したり短歌賞に応募したりする。自らの手から離れる瞬間、その表現は自らでは如何とも仕様がなく他者に自由に読まれる社会的・普遍的な一行となる。手を離すまでの推敲において、果たして自らの心を適切に他者に伝わる表現になっているかどうか?徹底的に見直し続ける。あまりに推敲に力を入れ過ぎて、むしろ表現が混濁して冴えない歌になってしまうこともある。しかし、なぜこれほど推敲にこだわるかと言えば、公表したら引っ込みがつかなくなるからであろう。「自らの心の叫び」が短歌だとすれば、作る者はその「叫び」に責任を持たねばならない。ゆえに投歌したり郵送・送信した後でも、脳裏の中で「この表現の方がよかったか?」という疑念が渦巻いてくる。表現の欠片をいかに恣意的に切り取られようとも、多様に如何様にも受け止められる運命を否定することはできない。短歌を手放す瞬間の喩えようもない緊張感と恐怖感にも似た快感は、「歌=こころ」であるという1300年の営為の上で成り立ってきた生きるための葛藤でもある。「言語」は手放したのち、「切り取られ誤解を呼んだ」「(その表現は)本意ではない」「撤回する」で済むものではない。小学生でさえも、一度提出した言語を散りばめた「テスト用紙」を「撤回」できるなどと思うわけがない。
自らを託す言語
言語生活は常に「人間性」と隣り合わせである
学習上においても甚だ害悪な醜態を政治家が世間に曝すのは、もういい加減にして欲しい。
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