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言葉が悪者なのか?ーことばの信頼と文化継承

2022-11-11
「本歌取り」はなぜ行われたのか?
題詠という方法と自らの抒情を叶えること
そして、「・・・という印象を与えた発言は、本意ではない」という言葉切り捨て

「ことば」でこそ人は、平和で豊かな社会を作り上げることができる。たぶん人類が他の動物と違いここまでの文明的な発展を遂げられたのは、「ことばの力」のお陰であろう。季節ごとの美しい風景をことばにして、そこに個々の自らの抒情を託す。反転し自らの人恋しい心を、自然の景物の状況に擬えて人に伝えようとする。日本ではこうした心物対応を「三十一文字(みそひともじ)」に託し、古来から人と人の心に「ことばの信頼」を築き上げ繋がり和み合って来たのだ。心に深く刻まれた「三十一文字のことば」は信頼度が極めて高く、現代ならインスタグラムなどで写真を他者に誇りたいように「その光景」を後世に遺したいと考えるだろう。信頼の極めて高い「三十一文字」を「古歌」と呼び、自らの和歌創作の要素に溶け込ませていく。『新古今和歌集』時代に確立して来た「本歌取り」という方法は、このように極めて高い「ことばへの信頼」であり高度な文化継承の方法であった。この日の文学史講義では、藤原定家の『近代秀歌』の「本歌取り論」を読み、自らが本歌取り和歌を創作する要点を読み取るという内容で進めた。「国語」という教科を小中高の学校種を問わず教える際に、ぜひ理解しておいて欲しい文化的営為である。

翻って国を代表する閣僚たる政治家どもは、正反対に「言葉を悪者」に仕立てて自己弁護に走る輩だらけで甚だ嫌気が差す。自らが公的に発言に「問題がある」と批判されると、「(批判されたような)印象を与えた発言は、私の本意ではない。」という弁解を幾度となく聞かされる。さながら「(公的に)発言した言葉」が悪者であり、「私自身はそんな心を持っていない」と「言葉」をトカゲの尻尾切りのように切り捨て保身をするのである。さらに酷いのは、「(批判の対象として)言葉をそのように捉えた世間がおかしい」と言わんばかりのケースさえある。さらに言えば「高い緊張感」とか「緊密な連携」など、ほとんど実態がないからこそ吐き出される、空虚な表面的で信頼の欠片もない言葉で重要な事態に対応したかのようなポーズを見せる。あまりにも「言葉」が、可哀想ではないだろうか。こうした些細な「言葉の信頼の失墜」の積み重ねが、結局は政治不信を招いていることに気づかない。いや気づいていても「その方法で一時的に騙せばよい」とさえ思うような発言さえ出てくるあたりに、深刻な「言葉への罵倒」があるように思えてならない。ゆえに僕たちは「三十一文字のことば」を極めて高い信頼を持って尊重し、次世代に引き継ぐために、日々に歌を詠むのだという矜持を持って生きていたいと強く思う。

米国では民主主義を護るかどうかという選挙が
揚げ足取りではない「本意」を問うための「ことば」
せめて教室では「極めて高い信頼」のある「ことば」を教えたい。


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