親を思うこころー俵万智さんとの6年半
2022-10-28
牧水は常に故郷の母を思い慕い沼津に建てた家に母を呼び一緒に住みたかった
高齢化社会によって親と過ごせる時間もさらに伸びて
宮崎日日新聞に「俵万智さん仙台に移住」の記事が大きく掲載された。確か「宮崎に移住」という際は1面であったような記憶もあるが、いずれにしても宮崎にとって重大なニュースだ。俵さんが宮崎にお住いの約7年間、日頃の「心の花宮崎歌会」をはじめ様々な場面で多くの学びと刺激をいただいた。特に2017年10月「和歌文学会宮崎大会」でパネリストをお務めいただいたこと、2021年6月「日本国語教育学会西日本集会(オンライン)」にて「短歌創作学習」について県内小中高の授業実践者との対話に加わっていただいたことは、僕にとっても大きな恩恵をいただく機会であった。宮日新聞の連載「海のあお通信」では、「友人」などという表現で何度か僕のことも書いてくれており、7月には肩書き付き実名で限られた字数の中を明記してくれたことも大きな思い出である。あらためて俵万智さんへの感謝の思いが、記事を読みグッと込み上げてきた。だが寂しいとともに、俵さんが移住の理由が「高齢のご両親のサポート」とあって大いに納得するものであったのも確かである。
前述した2017年10月「和歌文学会宮崎大会」の準備も大詰めとなった頃、「(僕の)父が仕事で脚立から落ちて腰を骨折した」という連絡を母から受けた。確か開催まで2・3週間という時期であったと記憶する。考えること行動すること全てが「学会大会開催」に傾き、まず東京までサポートや見舞いに行く余裕はまったくなかった。母も僕の状態を気遣い常に「特に来なくとも大丈夫」だという連絡をくれていたが、こちらとしては「今後は歩けなくなったら」など不安ばかりが募った。なぜこのタイミングで怪我をするのか?などと父への思いもなかなか寛容にはなれなかった自分を思い出す。この怪我も手伝って、両親は自らが経営していた建築会社を閉じることを決断した。その後、2019年9月には希望して宮崎に両親は移住してきた。その半年後の「コロナ感染拡大」の始まり、実にこれ以上ないタイミングで僕の両親は宮崎に移住してくれて、僕がサポートしながら生活をすることができている。今にして考えれば、父の骨折は「人間万事塞翁が馬」だったのかもしれない。この2年半「コロナ禍」の東京に両親を置いていては、たぶん僕自身が宮崎にて甚だ辛い思いをしたであろう。両親が老後を過ごすにあたり、恩義を深く感じる息子として、なるべく一緒に居る時間を長く取るべきという思いをもって俵さんに共感した次第である。
牧水が叶えられなかった母親との時間
俵万智さんは今後も宮崎での短歌賞や牧水短歌甲子園へ関わりは続く
「親を思うこころ」俵万智さんとともに今後の短歌に詠む大きなテーマがここにある。
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