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「正しい」とはどういうことか?

2022-10-21
古典に向き合って「正しい」とは?
「正しい」ことを言わねばならないと教える「学校」
「正解」という言葉をせめて「国語」では使いたくない

昨今、「正しい」ということが大きく揺らいでいる世の中である。「戦争」はいつでも「自国が正しい」と主張して、他国に侵攻するという行為である。「正しい主張ありき」で根拠たる理屈を「歪曲した真実」により取って付ける。本来は「根拠たる真実」があってこそ「適切」が導き出されるはずで、方向性が真逆であることを強制する悪辣な行為だ。やがて感覚は麻痺し尽くして「正しさ」は独裁的に強制される国となる。世界では多くの人が子どもでもわかる「裸の王様」の逸話を知っているだろう。「王様は裸ではない」という歪曲された事実が民に強制される訳である。周知のように「王様は裸だ!」と暴いたのは、幼い子どもの一言だ。素朴な疑問を忖度なく声を上げることの重要性に「強制を受ける大人」こそが学ぶべきだ。これは何も現在、侵攻をしている国に限らない危うい現実であると思う。政治が何事も「ありき」で進められ、行政も司法も「王様は裸だ」に忖度し、監視する役割のあるメディアまでが迎合していく。「正しさ」という言い方が実は何よりも「危うい」ことを、僕たちは注意深く子どものような童心で声を上げるべきなのだ。

なぜ我々は「正しさの捕虜」のようになってしまうのだろうか?大学教員になって「6・3・3と12年」を「学校」で学んできた学生たちと向き合うようになって、その理由が少しずつ解け始めている。入学後の1年生の講義での思考は、当初明らかに「(教員が与える)正しさを待つ」のが顕著だ。「あなたが思うように自由に考えてよい」という本来の「市民的思考」に気づくまでに半期ほどの時間を要する。具体例を挙げるならば、毎年の『枕草子』演習(2年生後期)での学生たちの発想が典型的な「ありき」なのである。「清少納言はあれこれ自慢めいたことを書き散らす嫌味な人物だ」という先入観「ありき」で、テキストに向き合おうとする。確かに「清少納言らしき人物」を酷評した同時代の『紫式部日記』の影響が大きいのか「高校古典学習」によって、この「ありき」がかなりの力を持って多くの学生たちに浸透しているのだ。ある意味で「教育の強制力」の恐さを実感する事例である。先ほど「清少納言らしき人物」と書いたが、この人物の存在を確かめられる資料そのものが『枕草子』なのである。ゆえに僕は身をもって学生たちに告げる、「僕の言うことも正しいかどうか?あくまで諸説を検討した上での一解釈である」と。そして「大学教員の言うことを簡単に信じてはならない」と続ける。自らの地頭で眼で批評的に疑ってみる。「国語」の学び一つでもこうした思考で行われないと、この国にいつまでも成熟は訪れない。

入試による「正解主義」の教育環境
果たして人生の「正解」などあるのだろうか?
「みんながそうする」からではない「一人ひとりがこう考える」なのだ。


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