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『ちむどんどん』反省会というWeb現象と物語の虚構

2022-10-01
朝の連続テレビ小説『ちむどんどん』最終回
「現実」とのズレをWeb上で批判する声の多さが話題に
沖縄本土復帰50年の物語として

物語の「最終回」というのは、幼少の頃から自ずと泣けてしまうたちだ。宇宙に帰ってしまうヒーロー物の最終回の後は、いつも寝床に入ってからも泣いていた記憶がある。部屋を隣にする叔母が、心配して来てくれたこともあった。その習性のせいか、やはり『ちむどんどん』最終回の家族が継承され和やかな「やんばる」の家庭の光景には泣けた。今回の「朝ドラ」で特徴的な現象として気になっていたのが、「『ちむどんどん』反省会」なるWeb上の言論である。ドラマ内容が「おかしい」とした意見がSNSなどに投稿され、「(登場人物などに)反省を促す」といった趣らしい。実際に僕自身が、SNSの「#」でこうした意見を見聞したわけではない。また見聞しようとも思わなかった。諸々のエンタメ記事などで、集約的な見方を読んだだけである。ただ今までの「朝ドラ」では、ここまで盛んに「反省的な批判」が書かれることはなかったように思う。ヒロインが周囲に目が届かず直感的で愚直なのも、この「朝ドラ」が初めてというわけではないだろう。確かに幼少期のまま最後まで実直な性格を通したという意味で、「成長物語」が常の「朝ドラ」では特異な存在だったとも言えるかもしれないが。

Webではなくリアルに周囲の人に『ちむどんどん』のことを話題にした時、やはり同じような傾向があった。「ヒロインの母が長男(賢秀)に甘いのが耐えきれない」などの意見を聞いた。もはや性別をとやかくいう時代ではないが、母が息子に甘く娘と敵対し、父はその反対であるという図式は多くの文学で描かれて来た普遍的な現象ではないだろうか。「物語」という「虚構」は、ある現象を誇張して極端に描くことで本質を伝えようとする装置であろう。「漫画似顔絵」がその人の特徴を誇張して描くのは、同類の現象であるように思われる。親子間の信頼が薄らいで来た時代にあって、沖縄の素朴な「やんばる」の家族の母が、「息子を信じ続け本人は破天荒な失敗を繰り返した末に人情味のある生き方を遅ればせながら発見する長男物語」を描くことができた。ある意味で、時代を超えて沖縄の雇用が厳しい状況であり若者の生き方を考えさせられる演出とも僕の目には映った。ヒロイン暢子もまた同じ、「大自然の恵みを笑顔で美味しく食べる愚直」が最後まで「やんばる」の素朴な風土そのものであった。「東京で店を開業したのを放り出した」とか、「一流レストランシェフに似合わない粗野な言動」などというのは、まさに物語的演出の範疇ではないのか?「沖縄本土復帰50年」という今年、ある意味で「ちむどんどん反省会」なる現象は、沖縄と本土の未だ埋まらざる溝を映し出しているのかもしれない。仲間由紀恵の役作りにも努力が窺えた好演、ヒロイン暢子を演じた黒島結菜の素朴さ、この2人のキャストが沖縄出身ということが、視聴者にどこかドラマとリアルの間を他作品より多く往還させたのだろう。「カチャーシー(歓喜の際などに舞う沖縄民俗舞踊)」の際などの手先は、この二人の役者さんこそが、まさに「動作ネイティブ」とも言えるような動きであった。僕はそんな細かい点までを、むしろ評価したいと思い半年間を見続けて来た。

海に親の魂は眠り
大自然の恵みとしての沖縄料理の数々
本土復帰50年を今年は短歌にもしたが、さらに沖縄を僕たちが真に知るべきなのだろう。


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