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意見を言うこと声に出すこと

2022-09-30
意見を言ってこそ相手を、その場を尊重している
意見を言わない後悔より言った後悔
そしてまた黙読ではなく声に出すことの意義も

小学校も半ばを過ぎるまでは僕はかなり引っ込み思案で、周囲からいじめられるような経験をした。だがいつも心の中で「この場面ならこういうことを言ってやりたい」と心の中で想像していた。例えば、授業中でも周囲が言う意見と違う考えを述べて、画期的な新しい視点を学級に提供するような妄想をよくした。次第に自我も発達し「自分は意見が言いたい人」なのだと明らかに悟るようになる。小学校4年生頃から妄想を実行に移し、社会の授業などでは「先生も知らないこと」をよく発言するようになった。日頃から「地図と年鑑」が好きでよく読んでいたので、音楽が専門だった担任の先生は授業中に、僕によく「内容を確かめる」ように発言を促した。この経験は「発言して場の空気感が変えられる」という面白さを、僕に実感させたのだ。以後、意見は「言った後悔より言わない後悔」の方が大きいと思うようになれた。現在でも研究学会でも、可能な限り質問をするように心がけて参加するようにしている。質問をしないということは、対象となる研究発表に対して失礼なことではないかと思う。

会議や学会で意見を言うのは、「声」で伝える行為である。意見は単に言えばよいのではなく、「言い方」も大切だ。全体の流れを汲み、その場の議論から新しい物を生み出す可能性を持った内容が求められる。論点をズラして自らの考えを滔々と述べるとか、前提から外れた「批判のための批判」を言う向きの輩がいるが、それを「意見」とは言えないとさえ思う。同時にこうした類の多くは、意見そのものの言い方が「何が言いたいのかわからない」場合が多い。もとよりその場の提案や議論の趣旨を、自らが理解していないのではないかとさえ思う。「質問」の言い方が全く整理されていない状態を伴う。また発言する際の「声」のあり方にも、僕は大変に深い興味がある。内容の不明確さは「声」のあり方によってさらに増長もし、補われる場合もある。「どのような言い方をどのような声で伝えるか」内容や場に応じて、僕はこんな部分も調整するようにしている。話は変わるが、11月に宮崎市内で「若山牧水に関する朗読&トーク」の公演に出演する。この日はメンバーとの初顔合わせ、とりあえず僕が読もうとする部分の雰囲気を伝えるために朗読をした。共演する演奏家たちとの実りある共鳴感、やはり伝えるのは「声」なのである。

【11月13日(日)午後「いとしの牧水ー短歌・朗読・トーク」公演・宮崎市内】
詳細はあらためて告知致します
深い思考を持った「声」を出せるよう、今後も心がけていきたい。


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